1k≒innocence

散文だったり、アニメ分析だったり。日常が切り取られていく姿は夏のよう。

そしてオタクは「気持ち悪い」から目覚める―SSSS.GRIDMANにエヴァを添えて

何かが変わる気がした 何も変わらぬ朝に
いつもより少し良い目覚めだった
―changes/Base Ball Bear

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「気持ち悪い」
1997年、多くのオタクがこの呪いにかかった。

 

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『劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』で終劇に告げられるこのセリフは、壮絶な運命を経てもなお、他者と向き合うことを決めた碇シンジへ向けられたものである。

本作において視聴者がもつ感情は様々だが、概ね「他者と向き合うこととは何か」を描写している点は共通認識であると思う。

 

個人的に本作を鑑賞したのは10年ほど前で、その頃は学生生活に病んでいたので、「どうして俺にミサトさんはいないんだろう…」と真剣に悩みながら毎晩夜明けまで劇場版を鑑賞する生活を1カ月ほど続け、前期の午前中の授業は全て落とした。
それでも今までなんとか生きてこれているし、ミサトさんにもそこまで渇望しなくなった。一方で当時苦手だったアスカが年々かわいく見えてきており、時間の経過を強く感じている。

 

しかながら「他者がいたって大丈夫じゃないか」というテーマが、想像の斜め上どころじゃない映像表現によってあまりに暴力的に受け取られてしまったことで、本作に"やられた"人たちは困惑と怒りのような感情を持つことになる。


さながら本作そのものが、鑑賞者にとってもゲンドウのような存在になってしまった。
本作によって鑑賞者に生まれた負の感情は、自らを縛る呪いとなっていったことと思う。

さらに15年後、新劇場版を経て上映された『巨神兵 東京に現る』では林原めぐみのナレーションによって「逃げろ、逃げろ」と語られる。


碇シンジの強がりにも似た「逃げちゃダメだ」とはなんだったのだろう。
いやそもそも本作から十数年も経っているのだから整合性を求めること自体が無為なのだが。

 

逃げちゃダメなのか。
逃げるべきなのか。
そもそも我々は何から逃げているのか?

 

「楽しい事見つけて、そればかりやってて、何が悪いんだよ!」

その答えを、SSSS.GRIDMANは示してくれたことと思う。

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最終話でのSSSS.GRIDMANは以下のような構造になっている。

1,ラストシーンの女の子(実写パート)
2,女の子が生み出した新条アカネ(=神)の生み出した世界(本作のアニメパート)

 

実写パートの登場により、本作のラストは視聴者とどこか地続きの現実のように感じられる。
しかしながら女の子が登場する実写パートは、飽くまでアニメパート同様に製作者によって作られた虚構であり、本質的にはアニメパートと同じ虚構である。
したがって本作の構造はこのようになっている。

 

A層,製作者・視聴者(現実)
---虚構の壁---
B層,ラストシーンの女の子(実写パート)
C層,アニメパート

 

ここで重要なのはB層の実写パートを「A層の視聴者と同じ現実の延長」と見てしまうと本作の印象が大きく変わってしまう点だ。

 

B層がA層と地続きと捉えるならば、新条アカネはアニメの世界から現実へと脱した存在となる。
新条アカネ≒視聴者のオタクという見方からすれば「新条アカネは結局自らの作り上げた虚構では生きていかれず、結局現実へと引き戻される存在であった」という認識になるだろう。
これではオタクの真の救済にはならない。

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現実に引き戻されてしまってアニメの世界に戻れないなら、結局本作は「現実に向き合え」という、ある種暴力的なメッセージを放ったエヴァ劇場版となんら変わりないものになってしまう。

 

一方B層が飽くまでC層の延長であり、B層もまた虚構であると捉えるとどうたろうか。
虚構(C層)から帰ってきた女の子はきっと彼女の現実(B層)で、生きていくだろう。
そして我々もまた、虚構から(B+C層)抜け出した世界(A層)で生きていくことになる。

 

女の子は居心地の良かった虚構から帰ってきた。
宝多六花は「私はアカネと一緒にいたい。どうかこの願いが、ずっと叶いませんように」と願った。その本心とは裏腹に。


きっと女の子は、新条アカネとして元いた世界に戻ることはできないだろう。
けれどあの世界で手に入れた「救われた気持ち」までは虚構ではないだろう。
その証拠としてパスケースだけが残った。

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それはまさに、望んだ世界が虚構だったとしても、そこから得た希望を以て生きようとする現実の人間の姿だ。

 

 

虚構、言い換えればコンテンツはきっと時と共に離れていく。
けれどきっとそこから得られた気持ちがオタクを救ってくれるかもしれない可能性は、確実にそこにある。

 

理想の世界は虚構かもしれない。
けれど虚構の世界で得られた感情は、ただ自分自身だけが信じられる現実そのものではないか、そう思うわけです。


ならばその感情を以て現実を生きることは、決して虚構に背を向けることとは異なると思うのです。

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奇しくも本作放送終了後、1月クールでトクサツガガガのドラマが放送された。
特撮によって生まれた友情やちょっとした勇気を描く本作にもまた、SSSS.GRIDMANの描くそれと同質性を感じずにはいられない。

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新条アカネは救われた、君はどうか?
そういう問いと可能性をSSSS.GRIDMANは示してくれたのではないだろうか。

 


祈るだけじゃ助からないってこと そんなの知ってる
呪うだけじや救われないってこと それもわかってる
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笑い者にされてた 僕の世界で 君のことをずっと待ってる
いないことにされてた 僕の呪いが
君の傷を癒やす お呪いになりますように

―魔王/Base Ball Bear