1k≒innocence

散文だったり、アニメ分析だったり。日常が切り取られていく姿は夏のよう。

『すずめの戸締まり』について、心の新海誠と対話した

心の中の新海誠のイメージ

 

「今回もエンタメとして皆さんが楽しめる映画を作りましたが、これまで僕の作品を見てきてくれた観客の皆さんを信じて、いつもよりちょっと多めに僕の思いを入れさせてもらいました」

心の中の新海誠―イマジナリー・シンカイ―がこう語りかけてくる。
2007年に『秒速』と出会ってから15年、少しずつその形が見えてきたイマジナリー・シンカイとの対話が『すずめの戸締まり』によってついに可能になった。


もちろん冒頭の言葉は本当に本人がそう言ったわけではない。ないのだが、あの柔和な笑顔と共にこのような言葉を語ってくれる謎の確信がある。
『すずめの戸締まり』について振り返ると、作品よりも新海誠自身への言及がどうしても避けられなかった。それほどに『すずめ』は過去作と比較して制作側の思想が大きく表出している。
過去に実際に起きた災害をとりあげる作品は、素人から見ても多方面にリスキーなのは明白だ。大規模災害ほど「当事者」のグラデーションが複雑になり、作品の受け止め方に大きな振れ幅が出る。

それにも関わらず『すずめ』はこのような形で公開されるに至り、そこには貫き通した覚悟があったはずである。

本来であればなるべく作品にのみ言及すべきであろうが、今回に限っては自分の中に培われてきたイマジナリー・シンカイとの対話を交えながら、『すずめ』に到るまでの新海誠(本物)の作家性について述べていきたい。

正直なところ、自分がどのように本作を振り返ることができるか、思考の整頓が本稿の目的でもある。

 

新海誠と建築

「東京だって、いつ消えてしまうかわからないと思うんです。だから記憶の中でも…なんていうか、人を温め続けてくれるような、風景を…」

これは『君の名は。』の終盤、主人公の瀧が就活の面接でゼネコンの社員に述べる志望動機の一部だ。

既にここから『君の名は。』、『天気の子』そして『すずめ』までの道筋は築かれ始めていた。

新海誠の実家が地元・長野で100年以上続く建築会社なのはそれなりのファンであれば知っているところで、これが建物、そして風景へのこだわりの基礎になっている可能性は大きい。

例えば『君の名は。』で瀧が風景スケッチに長けていたこと、同級生らとカフェの梁について言及するシーンはまさにそれを端的に表している。

また別のキャラクターでは三葉の同級生・勅使河原ことテッシーの実家も新海誠同様に土木業を営んでいる。そのふるまいを見るにテッシーの父は地元の有力者であるようで、父の「お前が継がんでどうするんじゃ」という態度に、テッシー本人は諦めのような感情を抱いている点も印象深い。(結果として糸守町がなくなったことで継ぐ実家すらなくなってしまったが…)
「フツーにこの町で暮らしていくんやと思うよ、俺は…」のセリフから想像される諦念は重い。

実際、新海誠は家業を継ぐ過程として実父の旧知の企業への就職を予定していたが、それを自ら断り、映像制作の道へ進んだ経緯がある。そこに大きな葛藤や覚悟があったことは想像に難くない。
テッシーは家業を継ぐ決意をした別世界の新海誠オルタナ・シンカイと捉えてもいいかもしれない。

どこまでも外野からの想像の域を出ないが、本人の生い立ちと作家性を完全には切り離せないだろう。
宮崎駿の飛行機への執着は実家が航空部品の製造企業だったことと無関係ではないだろうし、庵野秀明は実父との関係性が『エヴァ』に落とし込まれているだろうと、NHKのインタビューで述懐している。

本人のパーソナリティを推測するような言葉はあまり述べたくないが、新海誠は家業で果たせなかった建築(=都市構築)の分野に、アニメーションを通して関わろうと模索してきたのではないだろうか。新海作品の最大の武器である緻密な風景描写や、「シンガポールの女」としてネットミーム化した大成建設のCMもその一環と言える。

そして前述した瀧のセリフが示すように、彼なりにコミットとしてきた街という存在、そして街と共にある人々の存在も、時間の経過や時には理不尽な事象によって失われていく。それを3.11で目の当たりにしたことで2011年以降の作品の方向性が確定した、と想像する。

建築という視野があったことで、都市の衰退や喪失を「そこにあったものが無くなる」と捉えるだけではなく、さらに踏み込んで「人々がいちから築き上げて、維持し続けたものが無くなる」という都市構築の起点まで遡る想像力が、新海誠には他のアニメーション作家よりも強かったのではないだろうか。

・土地を語る


さらに深耕すれば建物が築かれる基盤になる「土地」そのものへの関心があればこそ、多数の日本古典の引用も説得力が増してくる。

日本の神話や古典には原点となる土地の風土が強く反映された物が多い。『すずめ』で言えば神武東征や天岩戸といった神話がベースになっているが、物語をトレースするだけでなくそこに土地というエッセンス(今回では神戸や東京など、近現代で大きな災害のあった場所)を加えることで、現代人にも理解しやすい形に再構成して『すずめ』のストーリーが構築されている。

君の名は。』『天気の子』と『すずめ』で大きく異なるのは、土地や自然現象といった人ならざるものたちに偶像性や意志を持たせている点だ。
君の名は。』の隕石は隕石そのものであったし、『天気の子』で陽菜と「つながった空」も、空想的なビジョンは示されたが万人に認識できる具体性のある存在ではなかった。
しかし『すずめ』では地震をミミズとして、ミミズを鎮める依り代を人語を理解するネコにしたように、自然物に意志を持たせた形で表現した。こうした自然物の具現化は過去作では見られなかったものだ。(そしてこれは新海誠なりの宮崎アニメへのリスペクトやアンサーだろう)
作中でも「気まぐれは神の本質」というセリフが登場するが、姿を与え、会話が通じるようで通じないキャラクターに落とし込むことで自然現象が人の意志の及ばない存在であることを強調することに成功している。
前半のクライマックスのダイジンの無邪気な「いっぱい人が死ぬね」というセリフがある。ダイジンは事実を述べているだけなのだが、そこに帯びる、抗いがたい不気味さの根底がここにある。

土地(日本の国土)とはなにか、その上に街を作るとはどういうことか、そしてそこに人が暮らすとはなにか。こうした着眼点は、いちから建物を作り上げる家業が身近にあって初めて培われたものであろうと思わずにはいられない。
そして人や社会にとどまらず、土地そのものにまで目を向けた点が『すずめ』の災害作品としての特色である。
そして「土地を物語る」という行為が、本来大昔から日本に根づいているカルチャーのひとつであることを改めて呼び覚ましたとも言える。

『すずめ』は今後長らく記憶に残る、伝承的作品を目指したのではないだろうか。


・11年の時間経過

『すずめ』では日本的な観念で日本的な事象を描くことに注力しているため、視聴者のバックグラウンドに日本的な感性がどれだけあるかで本作への移入度は大きく変わってくる。
事実、日本より海外での在住期間が長いフォロワーが3.11という日本特有の事象をモチーフにしてしまったことによって、一種の障壁のようなものがある旨が指摘されているのを見た。
過去作では隕石落下や異常気象といった、災害を抽象化したモチーフにすることで視聴者が個々の感性に基づいて自己を反映させる空隙があったが、『すずめ』では3.11に事象を特定することで、この空隙がかなり狭まっている。

しかしながら既に3.11から10年以上の時間が経過している。
すでに日本の中でも、特に10代-20代には遠い過去の話になってきている。新海誠自身も娘を引き合いに出して「(震災は)娘には記憶がないし、教科書の中のできごとになりつつある」と述べている。このあたりの制作背景についてはこれらのインタビューが参考になる。

eiga.com

 

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つまり『君の名は。』や『天気の子』に通奏低音として3.11が敷かれていること自体、日本に住む人にも時間経過によって徐々に理解されにくくなっている。(これはもちろん大きな被害やショックを受け、今なお多かれ少なかれ苦しみを抱える人を除外するものではない)
新海誠自身、この時間経過による風化に焦りのようなものを感じている。

忘却への焦りを抱えつつも、一方でこの時間経過が災害を客観視するために必要な期間でもあった。
そして興行的に多数の人に自作を観てもらえる環境が整ったこと、これが『すずめ』で震災を直接的に扱うに至った経緯と思われる。

新海誠(イマジナリーではない)は繰り返し「今回は観客の皆さんを信じました」と舞台挨拶で度々語っている。
この言葉にイマジナリー・シンカイがこう付言してくる。
「この信じるという言葉は僕が描きたかったことがすべて正しいといった意味ではありません。ある人にとってはたった11年前、またある人にとっては11年も前にそういうことがあったという事実を覚えていてほしい、そしてそうした中でも、生きていけば鈴芽のように少なくとも大きくはなっていける未来があることを知っておいてほしいんです」

・新海版「生きねば」

作中の後半、鈴芽が「(本当は)死にたくない」と心情を吐露するシーンがあり、ここで『ナウシカ』の結末を思い出した。
宮崎駿は漫画版『風の谷のナウシカ』を、壮絶な戦禍の後に生き残った人たちを背景に「生きねば……」というモノローグで締めくくった。「いろいろ困難はあるだろうが、それでも生きにゃならんのだ」という宮崎駿らしいエネルギッシュなメッセージである。

では新海誠にとって、『すずめ』において「生きる」とはどういうものなのだろうか。
イマジナリー・シンカイはこう解説してくれた。
「生きたいと願っても、そうは言っても苦しい時は苦しいので、生きたい気持ちを否定したくなる時がある。誰かにとっては否定している状態が常態化しているかもしれない。それでももしかしたら、ちょっとでも生きたくなるような何かがどこかに転がってるかもしれない。そういう可能性を示しておきたかったんです」
あの柔和な微笑と共に、そんな言葉が浮かんだ。

 

・土地に何を見出すか

ここで事前のプロモーションにはほとんど登場しなかったにも関わらず、公開後に大きな反響を呼んだ大学生・芹澤について触れておきたい。
そのビジュアルのインパクトとは裏腹に、足立ナンバーの中古オープンカーを乗り回し、友人を追い回す理由は2万円の貸し借りという絶妙に抜けた設定で話題をさらっている。『シン・ゴジラ』以来の巨大不明感情の再来である。

芹澤は本編において「何も知らない外の人」として現れる。鈴芽が何者かも、草太が椅子になったことも何も知らない。結果として、(さすがに3.11の事実は知っているとしても)芹澤は今の鈴芽の故郷を見て「綺麗なところ」と、なんの衒いや気遣いもなく語ることができる作中で唯一の存在である。

 

『すずめ』では観覧車から神戸の夜景を望むシーンがある。このシーンでは鈴芽と草太のセリフが続き神戸の景色への言及は無いが、煌めく夜景がかなり長めに描写される。

おそらく多くの鑑賞者がこの神戸を無意識に「綺麗な場所」であると認識するはずだ。

それは鑑賞者もまた芹澤と同じ存在たり得ることを追体験(時系列的には先体験だが)させられているのだ。本作に神戸が取り上げられた理由を考えれば、このシーンの意味合いも大きく変わってくる。

 

土地はただそこに在るだけであり、敵でも味方でもない。

そしてある土地に対して何を見出すかはその人の記憶、体験…さまざまな要素で無限に枝分かれしていく。誰かにとってそれは希望や未来であるかもしれないし、その反対、あるいは何かが入り混じった複雑な気持ちであるかもしれない。

『すずめ』はこの「土地と人の関係」を純粋な事実として明確にした作品であり、極限にニュートラルな物語であることを目指している。

 

「何かに対して悔やんだり苦しんだり、楽しんだり前向きになったり、正直何も思わなかったり。いろんな思いが、そのままの姿であっていいと思うんです」

イマジナリー・シンカイは変わらない微笑で最後にそう語った。

 

あなたは鏡だった あなたは鏡だった

―Tamaki/RADWIMPS