1k≒innocence

散文だったり、アニメ分析だったり。日常が切り取られていく姿は夏のよう。

『雨を告げる漂流団地』で揺らぐ不憫の境界線―高すぎるリアリティの副産物

 
インターネットから「サカウヱの好きそうなキャラがいっぱい出る」との通告を受けた『雨を告げる漂流団地』ですが、登場から異色を放つ金持ちギャルの令依菜がマァかわいくてですね

冒頭から「明日からフロリダのディズニー行くの~(ドヤァ)」と飛ばしてくる様子は女児化したスネ夫そのものなんですが、その後のザ・初恋って感じありありの言動とか周りへの当たり方とかは本作で一番人間らしいし、また時折見せるギャグキャラ的振る舞いはキュートとしか言いようがありません。

団地に閉じ込められた結果「(早く帰りたいから)何でもするからぁ~!」と泣き崩れるあたりはまさに「小学生!!わかる!!何でもするからとか言ってたわ!!」と感動すらさせられました。ともするとそんなに大人びてねーだろってツッコミたくなることが多い小学生モノの作品の中では、かなりリアルに小学生していたと思います。
それにしてもこういうガキんちょって趣のキャラクター、昔は得意じゃなかったんですが年々かわいげを感じてきている自分に時の流れを感じざるを得ません。
 
 
作画、背景、劇伴(ずとまよ助かりすぎる)と個々の仕事の丁寧さが光る本作ですが、イマイチノリきれなかったという感想もまあまあ流れてくるんですよ。
それは似たようなことを自分でも感じてまして、その理由のひとつに現実/非現実の境界がかなり曖昧に話が進んでいくところにあると思っています。
 
序盤で団地の屋上にみんなが集まり、一悶着あって文字通り滝のような雨が降り注いだ後、あたり一帯が海となって団地の「漂流」が始まる。非現実的な場面によって明確に場面が変わったと理解できるシーンです。
その後プール施設や百貨店の廃墟といった、夏芽の過去に紐づいたものばかりが漂流してくるので、一見すると夏芽の精神世界に他の登場人物が迷い込んだファンタジーもののように見えます。しかしキャラクターたちはしばらく「これは夢だ/夢じゃない」という押し問答を繰り返し、また食べ物に困窮するシーンもかなり長めに描写されるため、鑑賞側としては異界(=現実の基本原理が通用しない世界)なのか現実の延長なのか(=餓死しかねないようなリアルな世界)、イマイチ判断しきれないまま話が進みます。
 
キャラクターデザインもかわいげがあるのでもっと二次元的な作品だと思って鑑賞に臨んだのですが、実際のところはファンタジー世界で小学生にガチのサバイバルをやらせるという想像よりずっと重い話でした。
劇場では未就学児前後くらいの子どもたちもいくらか見かけたのですが、彼ら/彼女らがどういう感想を持ったのか少し心配です。
 
そうしたかわいげのあるキャラクターたちがバンバン怪我するんですよ、この映画。
転んで床に放置してある賞状のガラスを膝で割る(マジでこれが一番痛そうだった)とか、崩れた団地から落ちて頭打って流血した上にしばらく気絶するとか、マジでハードな描写が多いです。
特にこの気絶した子を巡ってほかの女子同士で言い争うシーンとかきつすぎて吐きそうでした。
 
「これは異界の話だから、本当に死んだりしないだろう」という意識の下で鑑賞できていればそこまでストレスに感じなかったと思うのですが、「舞台設定は異界なのにキャラクターたちは生身なんだ…」という意識で鑑賞してしまったがために、彼らの行末が鑑賞に支障が出るくらい本気で心配になってしまいました。
また団地への断ち切れない思い、航祐とそのおじいちゃんへの後悔の念といった課題を、自身も家庭環境が穏当とは言えないヒロインの夏芽ひとりに抱えさせるのもなかなかヘビーな設定でした。
 
石田監督は本作のさまざまなインタビューやパンフレットで劇場版ドラえもんの存在が自らの中で大きいことを述べているんですが、確かにその影響を大きく感じる構成になっています。
上記のインタビューではこのように述べています。
 
ペンギン・ハイウェイのインタビューなどでもよく言っていましたが、僕は子どもの頃『ドラえもん』の劇場版を観ていた影響が大きいと思います。『ドラえもん』の劇場版の物語って、言ってしまえば子どもたちが漂流しているようなものだと思うんです。のび太たちが異世界に行って帰ってくるわけですから。
 
確かに本作も「異界に行って帰ってくる」話で、これはグリム童話などの大昔から続くストーリー展開の基本形です。
しかし『ドラえもん』と異なり、『漂流団地』はまず現実世界のリアリティライン―どれだけ鑑賞者の世界に近い道理の世界か―がかなり高めに設定されています。
 
御存知の通り『ドラえもん』ではのび太たちのリアリティラインはそこまで高くありません。しかし『漂流団地』ではスマブラやディズニー、ブタメンなど実際に存在する固有名詞が冒頭で多数出てくるため、本作の世界や登場人物が鑑賞者と地続きにある存在のように感じられます。
結果として『漂流団地』のキャラクターたちが我々とほぼ同じ存在のように感じられるようになっているのですが、これが前述したケガ描写などの過度なストレスに通じているように感じます。
 
ドラえもん』でも『夢幻三剣士』のようにのび太やしずかちゃんが死亡するようなシーンもあるのですが、魔法で灰になるというファンタジー演出に留められており、ショッキングではあるものの非現実的であると理解できるラインになっています。

魔法で一瞬でやられるのび太(後で復活します)
この記事はたまたま『竜とそばかすの姫』地上波放送の直後に書かれているのですが、こちらも実際の地名や緻密な背景描写によって高いリアリティラインを保持していることが、終盤の展開への「いやそうはならんやろ」という多くのツッコミを呼んでいるように思われます。
作劇の技術向上と共に非常にリアリティの高い映像が提供されていることはとても喜ばしいですが、こうした現実と見間違うような設定が物語の展開自体に縛りを与えかねないものでもあるように思えてきています。
 
一方で映画ではありませんが、ほぼ現実の東京(江東区あたり)を舞台にするTVアニメ『リコリス・リコイル』は一部の設定や展開のガバさにツッコミが入るものの、概ねそれも味のひとつとして受け入れられている様子です。
 
ある程度ゆるい現実観の上に成り立つ物語の方が、実は鑑賞する方にとって素直な楽しみを与えてくれるのかもしれません。
そういった意味では、決してリアルさや緻密さが売りでなくとも面白い作品はいくらでも生まれてくる余地があるように思えます。
 
今日言いたいのはそれくらいです。