1k≒innocence

散文だったり、アニメ分析だったり。日常が切り取られていく姿は夏のよう。

葛城ミサトです。セカンドインパクトの真実をお伝えします。

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こちらの画像は旧劇エヴァ(98年)の序盤で、葛城ミサトネルフ本部のデータベースをハッキングして「これがセカンドインパクトの真実なのね…」とつぶやくシーンのパソコンです。

この後データが全削除され、戦略自衛隊が突入してくる辺りです。

少し前にDVDで見た時に「これなに書いてあるんだろう」と思い調べたのですが、インターネットで言及されている方を見つけられませんでした。検索の仕方が悪かったのかもしれませんが。

 

そこで読める範囲で文字起こしてしてみましたので、皆さんにもセカンドインパクトの真実をシェアさせていただければと思います!これであなたも補完計画の一員です。

 

以下文字起こしルールです。

・左上→左下、続いて右上→右下の順になっています。

・文字起こしは右下の最後の段落以外。切れている部分が多くて文章になりにくかったので。

・読めなかったところはアスタリスク。自信がないところは太字です。

・途中のバイナリデータに「4」が入っていますが、誤記ではありません。

 

それでは早速御覧ください。

 

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A group comprised primarily of college students living in and around Osaka got together and put on GEHIRN,the ADAM vention.

 

3.The biggest attraction at this event was the animation short that aired at the convention’s opening. This feature was produced completely independently of any professional studios, especially for this convention. Running somefive minutes, it took the convention’s volunteer staff an entire ***er to finish. The production staff created around several art college students, who had acquired some knowledge, however small, of anime production. In addition, such merchandise as handmade model kits(garage kits) and t-shirt made specially for the con proved popular as well.

 

4. Building on this experience, the core members of the con’s staff opened “SECOND IMPACT”, an ADAM specialty shop, in SECOND IMPACT. It was the first store in Japan whose stock-in-trade was science-fiction related merchandise.

Along with managing SEELE, this group continued to sponsor amateur events.

 

5. In 2002, when the ADAM returned to Osaka as SEELE, the SCOND IMPACT, they produced an opening animation feature for it as well, which drew *** revision. Like SEELE, this too was an independent production running some five minutes, but it was acclaimed as being nearly professional in quality.

The feature which at least launched this amateur powerhouse into the professional anime world was “GEHIRN--**mise no SECOND INPACT”.

Directed by Yamaga Hiroyuki, who was 24 at the time, it was produced as the first animated feature films by toy maker Bandai Corp.

These abilities found their way into the amat ***

as well, in the form of GEHIRN’s various tokusatu ***

Features, Between 2001 and 2003 this group

 

(右段落)

 

And in order to produce this film, GEHIRN, was founded in December 2012.  Later, GEHIRN the animation production company, and General Products,  manufacturer and distributor.

 

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7. GEHIRN would go on to produce the original video anime series “Top o Nerae!” (Aim for the Top!) Vols. 1-3, the NHK anime TV series “Fushigi no umi no Nadia” (GEHIRN of the Mysterious Seas/The Spirit Wonder), and the original video anime features “Otaku no Video 2011” and  “SECOND IMPACT”, which detail the history of “otaku” while spoofing GEHIRN’s own history at the same time.

 

8.  These abilities found their way into the amateur filmmaking arena as well, in the form of GEHIRN’s various tokusatsu(live-action ADAM) features, Between 2001 and 2003 this group would produce “ADAM” (Patriotic Taskforce Great Japan), “EVA-00” (Ultraman Returns), ( a parody of the) and “ADAM” (Revenge of Yamata Orochi --The Eight-- Headed Snake). With the support of General Products, the group also organized showings of these features in various locales.

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文字並びでなんとなく内容が見えているかと思いますが、比較的読みやすい7段落目をDeepL翻訳をかけて少し整えました。

 

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 7. GEHIRNはその後、オリジナルビデオアニメシリーズ「トップをねらえ!」Vol. 1~3」、NHKアニメ「ふしぎの海のナディア」、そしてGEHIRN自身の歴史を交えながらオタクの歴史を描いたオリジナルビデオアニメ「オタクのビデオ2011」「SECOND IMPACT」を制作した。

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というわけで、葛城ミサトが発見したセカンドインパクトの真意とは「ガイナックスの前身となった、関係者が学生時代に立ち上げた団体の歴史にいくつかの架空のエピソードを交えたもの」でした。 

冒頭で「文字起こしは右下の最後の段落以外。切れている部分が多くて文章になりにくかったので」と書きましたが、それ以上に手前の段落まで文字起こしして「ああ、多分これ以上やってもロクな事が書いてない…」という挫折が多分にありました。

 

パトレイバーをはじめ、昔のアニメでは似たようなお遊びがあったようですが、最近あまり見ないような気がします。

togetter.com

 

オランダ語で書かれた解体新書の翻訳が遅々として進まず、1日かけて「眉とは目の上にはえた毛です」という一文を得るのがやっとだったというのは有名な話ですが、今回はそれにも似たような体験でした。

 

もし現行のDVD版よりクリアなキャプチャが取れる方がいらっしゃれば、より高精度なセカンドインパクトをお楽しみいただけるものと推察します。

こちらからは以上です。

青い子は「負けヒロイン」へ。「普通」の女の子を「特別」に愛せ。

私は青い子愛好家である。

青い子とは、ラブコメ等における「定番のフラれ役サブヒロイン」のことだ。髪の色が青いことが多いのでこう呼ばれる。
川嶋亜美美樹さやか、谷川柑菜、イチゴ…みなさんはどんな青い子を思い浮かべるだろうか。

 

だいたいの青い子は主人公の幼馴染で、ショートカット。(もしくは金髪ツインテール)
部活は陸上部などの個人競技の運動部員が多い。
性格は比較的陽キャで、普段は気兼ねなく主人公に接するものの、肝心の恋愛的なところでは奥手。
そして物語終盤、メインヒロインとの恋愛競争に敗れるよう運命づけられた存在である。

 

特にアニメの担当声優が東山奈央石原夏織市ノ瀬加那(敬称略)のいずれがである場合、青い子愛好家の期待は一気に高まる。
特に石原夏織ご本人に至ってはこのようにおっしゃられている。

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青い子は時として現実をおびやかす

青い子は物語的には負けるが、我々としては勝ち以外の何者でもない。
自分が勝負しているわけでもないのに勝ち負けとは本当に驕った考え方であるが、青い子愛好家はこのアンビバレントな感情を抑えられない、愚かな存在である。

 

そのあたりを掘り下げた記事を以前書いた。
だいぶはてブも伸び、ページビューも当時相当なものになったのは今でもよく覚えている。

 

sakasakaykhm.hatenablog.com

 

なおこの記事で言及した助六と称される美樹さやかは2021年に於いても助六のままである。(まどか、杏子、ほむら、巴、渚、助六)

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"Sukeroku"

厳選テイクアウト|茜屋すしぎん


この記事の公開当時、なるほど、みんな似たようなことを思っていたのかと思いつつも、当時はマイナー嗜好のひとつ程度に捉えていた。


青い子好きは飽くまでメインジャンルの中のサブ嗜好でしかない。
何故なら青い子はメインヒロインによるメインストーリーあってのフラれ役であり、また「負け」に向かって純粋に突き進む勢いと純粋さが無ければ青い子たり得ないと考えていたからだ。

 

しかしこの記事から3年が経過し、世間の事情は大きく変わってきた。

今年7月、『負けヒロインが多すぎる!』というラノベが発刊されたのだ。

 

負けヒロインがメインヒロイン、という矛盾のような作品が生まれたのである。

しかも負けヒロインが3人も出てくるというではないか。

小学館の公募での受賞作である本作は発刊前から宣伝twitterアカウントが作られ、本記事の公開時点ですでにフォロワーが1万人を超えている。

ln-news.com

 

当然、表紙を飾るメインヒロインは、青い。

「みんな、そんなに負けヒロインが好きなのか」
本作の情報を見つけたとき、戸惑いと喜びが同時に湧いてきた。

 

青い子嗜好はメインヒロインへのアンチテーゼ的な側面もある。


「ふふん、俺はやつらとはちょっと視点が違うぜ」といったこじらせた自意識があったり、あるいは「メインヒロインのような眩しいキャラより、親近感のある幼馴染のようなキャラの方が俺には合っている」といった趣味のよくない嗜好が多少ならずとも含まれる。

 

それがどうだ、『負けヒロインが多すぎる!』とは一体何事か。
米国株式と負けヒロインは多すぎて困るということはない。

 

「俺、負けヒロイン好きなんだよね」「わかるー」という会話が日常的になる世界がもうすぐ来ようとしている。
「ジャンル:負けヒロイン」の誕生をここに祝いたい。

 

負けヒロインは近年、その扱いが変わりつつあった。

 

負けヒロインというワード自体、カジュアルに作品タイトルやキャッチコピーに使われるようになってきた。
2019年のコミティアで以下の2作を見つけたのは偶然ではなかったと思う。

 

・「負けヒロインは報われない」シリーズ

https://www.melonbooks.co.jp/circle/index.php?circle_id=44184

 

・負けヒロインに学ぶ恋愛必勝術

#オリジナル コミティア130告知 - 芦垣丁のマンガ - pixiv

 

特に『負けヒロインに学ぶ~』は後ほど商業誌で読み切り化し、作者も原作付きでさらに別の負けヒロイン作品を発表している。

 

www.youtube.com

 


他に軽く調べただけでも負けヒロイン作品の増加傾向が見られた。

・ヒロイン転生~逆ハを作ってなにが悪い!(2015年 なろう最古の負けヒロイン作品)

https://ncode.syosetu.com/n0327cy/

・負けヒロインを書く苦悩(2017年 カクヨム最古の負けヒロイン作品)

負けヒロインを書く苦悩(双山サキ) - カクヨム

・勇者様の幼馴染という職業の負けヒロインに転生したので、調合師にジョブチェンジします。(2018年なろう原作、2019年商業化、2020年コミック化)

 

・負けヒロインの逆襲(2019年)

seiga.nicovideo.jp

・姫ヶ崎櫻子は今日も不憫可愛い(2020年)

comic-walker.com

・負けヒロインの後輩(2021年)

rookie.shonenjump.com

 

・選ばれたかった少女たち(2021年) おすすめです。

 

特になろう・カクヨムでは2019年以降、「負けヒロイン」というワードが使用された投稿が増加していた。

Googleトレンドを見ても「負けヒロイン」というワードの注目度は、2020年以降かなり上昇傾向にある。
負けヒロインの認知度は間違いなく高まっているのである。

 

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負けヒロインは日々進化中

 

このグラフの真ん中にある急激な山は2012年6月にあたる。
2012年冬クールに長井龍雪監督の名作『あの夏で待ってる』が放送だったことを考えると、おそらく本作の負けヒロインの金字塔・谷川柑菜が築き上げたトレンドと考えてよさそうだ。
2012年を負けヒロイン元年、マケイン元年としてここに元号制定したい。
今後は令和おじさんならぬマケインおじさんとして生きていこうと思う。

 
そもそもなぜ負けヒロインが支持を得るようになってきたのか。
そのヒントを、負けヒロインとは切っても切れない要素である「幼馴染」に見出してみたい。

 

おさまけこと『幼馴染が絶対に負けないラブコメ』がアニメ化されたのは記憶に新しい。

タイトルのとおり、「幼馴染=負ける」という前提の上に本作のタイトルは成り立っている。また本作のヒロインのひとりである幼馴染は、遠慮なく主人公にグイグイ突っ込んでくるタイプだ。

最近の幼馴染は傾向として「なんでも気兼ねなく、恋沙汰でもカラッと話せる相手」として扱われているようである。
タイトルを参考に例をいくつか挙げる。


転校先の清楚可憐な美少女が、昔男子と思って一緒に遊んだ幼馴染だった件 (2021年)

 
男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!) Flag 1. じゃあ、30になっても独身だったらアタシにしときなよ? (2021年。ヒロインが、青い)

 
ねぇ、もういっそつき合っちゃう?幼馴染の美少女に頼まれて、カモフラ彼氏はじめました (HJ文庫) (2021年。本記事執筆当時、HJ文庫ベストセラー) 

 

かつてTV版エヴァ最終回の「あったかもしれない世界」で、幼馴染となったアスカは寝坊するシンジを部屋まで無理やり起こしに行き、軽口を叩きながら一緒に登校するシーンがあった。
まさに幼馴染とはなんたるかが端的に表現されたシークエンスであるが、そこに現れるのは幼馴染への「日常的・普通な親近感」である。

飽くまで仮説に過ぎないが、幼馴染とニアイコールである負けヒロインにもそうした親近感が見いだされ、負けヒロインがメインヒロイン足り得る魅力として注目されるようになってきたのではないだろうか。

 

「付き合うならアタシにしときなって!」
人生において幼馴染に言われたい殿堂入りワードのひとつである。

 

これから負けヒロインはどのような存在になっていくのだろうか? 

 

遅ればせながら、先日『冴えない彼女の育てかた Fine』を視聴した。
本作の終盤、メインヒロインの加藤恵と、主人公の幼馴染 澤村・スペンサー・英梨々による印象的なやりとりがあった。


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「確かに倫也君は、普通じゃなかったかもしれない。けど、英梨々や霞ヶ丘先輩ほど特別でもなかったんだよ」
「それ才能の話よね? 性格のことじゃないわよね」
「だからね、ふたりに追いつかない同士、ちょうど良かったんだよ。私と、倫也君は」
「…なによそれ」
「倫也君言ったんだ。『私ならなんとかなるんじゃないかと思った』んだってさ」
「普通そう言われたら、怒って別れると思うんだけど」
「確かに私、普通の男の子を好きになるような、普通の女の子じゃないのかもね」
///

 

公式に「ごく普通」と紹介されるように、加藤恵は「普通」のヒロインである。
冴えカノはそんな普通のヒロインが「特別」になっていく様を描いた作品だった。

 

負けヒロインは凡人である事が多い。いわば「普通」なのだ。
しかし普通の女の子が物語的に負けてしまうとしても、何かに立ち向かう瞬間はいつだって特別である。

その凛々しい姿に、我々青い子愛好家は打ちひしがれ、涙する。

そして時には思いがけない形で、彼女たちは「特別」へとたどり着くときが来るかもしれない。

それがジャンル:負けヒロインに秘められた可能性である。

 

これからたくさんの「普通な」負けヒロインが、「特別」へと変わっていく姿が見られることを、青い子愛好家は期待してやまないのである。

負けヒロインの可能性は未だ計り知れない。

 

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美人じゃない 魔法もない
バカな君が好きさ
途中から 変わっても
すべて許してやろう

スピッツ/夢追い虫
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www.youtube.com

「ひげひろ」を全話観てまあまあ悩んだので話を聞いてほしい

ガリベンジやVivyなどオリジナルアニメが隆盛した2021年春クールでしたが、個人的に最も心悩ませた作品は「ひげひろ」こと「ひげを剃る、そして女子高生を拾う。」でした。

 

残念ながらこの記事は本作を多くの方にオススメするためのものではありません。本作を楽しんだ方にはケチつけてるようであまりいい内容ではないですし、別に本作観てない人に対して「こんなんあったよ」と広めたいわけでもありません。
ただ一個人がどこか疑問を持ちながらも全話観てしまった、本作の謎のパワーと自身の気持ちをまとめた内容です。

 

「おじさん、泊めてよ」

北海道から家出してきた女子高生のヒロインと、一介のサラリーマンである主人公が都心の夜道で出会うところから物語は始まります。
寝泊まりの場も碌に用意できないヒロインはいわゆる「神待ち」でなんとか生きており、男に拾われ、身売りしては追い出され、また拾われるという生活を続けている。

傷心の酔った勢いで主人公もまたヒロインを「拾う」が、ヒロインは自分の身を求めない主人公に戸惑いながらも共同生活が始まる…という導入になっています。

 

当然本作はフィクションなのですが、未成年の家出人が初対面の人間の家に転がり込むようなことは実際に現実で起りうるものです。そしてその多くは当然、犯罪として取り締まられています。
もちろん家出人の自由が制限されていなくても逮捕された事案あります。要は社会的にも影響が大きいことを主人公はスタートからやっていっているわけです。

ちなみに本作では主人公をはじめすべての登場人物が、ヒロインを匿ったこと自体は違法行為であることを認識しています。
「見た目では小学生ですがこのゲームの登場人物は全員成人です!」理論で構成された作品ではないので予めお知らせしておきたいと思います。


「未成年の家出人に出くわしたら、どうしたらいいのか」

現実に考えるとすごい重いテーマですね。

 

社会規範に則れば然るべき団体や警察に任せるのが当然です。
あるいはヒロインのような声掛けに出くわしても無視するのも手かもしれません。
見ず知らずの人間に深く関わらない。当たり前の判断です。

一方、家出の主因を解決するには当人だけでは難しいことが多いでしょう。第三者の介入も困難だったりします。
実際本作のヒロインは学校でのとある事件と母親との不和から家出しており、家庭からも地域コミュニティからも見放された存在になっています。

「家出なんてしてないで、ちゃんとお母さんと向き合いなよ」
そう言うのは正しいのですが、家出した当人にとって何の助けにもならないでしょう。

 

簡単には答えの出ないこの命題に、最終話までに示された結果はこうでした。

「主人公とヒロインは半年ほど共に暮す中で信頼を築き、身の回りの人の理解と助けを借りて母親と向き合い、一定の和解を得て平穏な暮らしにヒロインは帰っていった」

 

よかったよかった。ヒロインは助かったようです。

 

一方で新聞沙汰の違法行為を行っていた主人公はどうなったでしょうか。
半年以上も未成年者を匿っていたにもかかわらず、ヒロイン本人はおろか肉親からも訴えられず、それどころか「助けてくれてありがとう」と感謝され、もとの一人暮らしの生活に戻ります。
事情を知る同僚からもなんのお咎めもなく、これまで通り勤労を続けているようです。

 

作品の結末自体はそうなると思っていました。
ただフィクションでも、それでよかったんだろうか?とずーっとモヤモヤしております。

「フィクションだしそこまで本気になって考えなくてもよくない????」という気持ちもあるのですが、しかし「フィクションだから、で済むライン超えてない????」と思ってしまう自分もいるのです。

 

アニメを観た限りですが、物語は大筋として「ヒロインを救うにはどのように登場人物を動かせばいいか」に注力された展開が終始続きます。
ある意味では「ヒロインを救う」結末を迎えるために「割り切った」作品だと思いました。

本作は「カクヨム」で連載投稿されていましたが、割り切った作品を作る作者と、それを了承して読む読者という一種の相互合意が本作の人気を支えていたんじゃないかと思います。

ただこれが商業作品としてリリースされたことを考えると、出版社やアニメの出資企業といった第三者もこの展開を了承したのかと思うとどうもすっきりしないのです。
フィクションとはいえリアリティのある違法行為にゴーサイン出してるわけですから。
あのデスノートですら最後は主人公死んでますし、現代劇をベースにしている以上違法行為を認識しながらイイハナシダナーで終わらるのはなかなかリスキーなように感じました。

 

ただの妄言ですが、ヒロインを無事に実家に返してあげた後に主人公が「大人としての責任を取る」と言い出して自ら出頭、その後不起訴になるが社会的信用がゼロになったところにとヒロインが自ら再会。あっけにとられる主人公に対し、一話に合わせて「泊まってきなよ、おじさん」で完結していたらスタンディングオベーションしていたかもしれません(何の願望?) 

そういう二次創作すでにありそうですね。

いずれにせよ何かしらの禊が主人公にあれば、現代劇として相当説得力が増したんじゃないかと思います。もちろん主軸がそこにあったわけではないとは思うのですが。

 

いろいろ言ってきましたが、それでも全話視聴してしまったのは「ヒロインを絶対に救う」という一貫した意気込みを感じたこと、またキャスティングされた声優陣の演技が良かったことでツッコミどころの多い展開でも押し通すパワーがあったおかげだと思います。

特に市ノ瀬加那さんの儚さを絶妙に含んだ演技を見せるメインヒロインは、2次元キャラとして非常に危うい魅力がありました。


あと気がついたら自滅していたサブヒロインを石原夏織さんが担当されていたことは個人的に僥倖以外の何者でもありませんでした。
3年前から何も変わってませんね。人として軸がぶれていない。

 

sakasakaykhm.hatenablog.com

 

 

これにて2021年春クールの振り返りを終えたいと思います。

 


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(きっと)最後の作文 - 「僕とエヴァンゲリオン」

*↓ここから「シン」鑑賞前に書きました*

一年程ブログに間が空いてしまいました。正直この一年結構いろいろあったのですが、どうも記事にする方向に意識が向かずここまで来てしまいました。


先日から「シン」公開前にも関わらず「私とエヴァ」といったテーマの記事がちらほらあがってきています。やはりこの14年(TV版から数えれば26年)という時間はあまりにも長く、エヴァを語ることは同時にその人の人生を振り返ることに直結しているようです。

したがってこの記事も自分語りから始まります。

 

***

 

地上波テレビ不毛の地であった青森で、小学生の頃にポケモンの後に放映されていたのがTV版エヴァでした。年少者にとってそれは抗えない無慈悲な洗礼であり、僕のエヴァの呪縛はそこから始まりました。


内容の理解はさっぱりでしたが、最終2話の裏返しセル画や線画で構成された画面に、強烈な印象を受けたのをよく覚えています。

アニメ雑誌なんて読んだことありませんでしたし、インターネットもなかったのでいかに作品のインパクトがあったかを裏付けています。


時は流れ大学に入り、都会での一人暮らしによるハイな気分も落ち込んできたあたりで旧劇場版に出会いました。

それまでの受験に向けたタイトに時間感覚から解放され、逆に間延びした生活したサイクルの中で漠然とした将来への不安が増していました。その不安の捌け口がどういうわけか旧劇場版に向かってしまい、毎晩朝方まで見返す時期が3ヶ月ほど続きました。

「俺にはどうしてミサトさんがいないんだ」などとぼやいているうち、2年前期の単位をそれなりに落としました。(午前中全く起きれなかった)

 

ただ悪いことはばかりではなく、旧劇場版によって「人は完全には分かりあえないという前提で他人と向き合わなければならない」というシンプルながら大切なことに気がつけたように思います。

この頃からエヴァの裏設定的などにはあまり関心が向かず、それぞれのキャラクターの生き様や関係に意識が向いていきました。それは今でも変わっていません。

 

そのまま学生生活は典型的な夜型に突入し、程なくして深夜アニメにやたら力を入れていたテレビ神奈川の誘惑にまんまとはまりました。

「このストライクウィッチーズという素晴らしいアニメの監督はガイナックス出身なのか!」といった発見から、グレンラガンカレカノフリクリとガイナ作品をどんどん取り込んでいくうちに新海誠作品に出会いました。

在学中に公開された序・破の後押しもあり、結局卒論のテーマにエヴァ新海誠を軸としたセカイ系を取り上げるに至ります。

ここで人生が後戻りできない方向に定まりました。

みんなテレビ神奈川が悪い。嘘です。


***

 

2007年公開の「序」から2021年現在まで、いろんなことが変わりました。

ドコモのネルフコラボ携帯はまだガラケーでしたし、序DVD発売時にはトイレしか写ってないフィルムがヤフオクで高値で取引されました。
それまでちょっとキワモノ扱いだったアニメのコラボ商品やキャンペーンが当たり前のようにコンビニや百貨店で展開され、紫と黄緑の初号機カラーリングを目にしない日はなくなりました。


そういえばEVASTOREでやってた「エヴァグッズと撮るご当地フォトコンテスト」みたいなのがありまして、入賞してタンブラーもらったりもしました。2012年とかだったと思うのでもうインターネット上に何も残ってないですが…。

↓その時の写真です。

 
 
 
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あとこのブログのアカウントの真希波アイコン、かつて相互フォロワーだった人に描いてもらったやつなんですよ。9年くらい前だと思うんですが、いつの間にかアカウントなくなってて、もう連絡つかないんですよね。      

1コンテンツを振り返るにはあまりに長い時間が過ぎました。

僕はといえば今年で社会人10年目を終えようとしています。なんの冗談ですか?

「Q」公開の頃「劇場版完結するまでは生きたいな」とか半分冗談半分本気で思っていましたが、ついぞその日が来てしまいました。


なんとなくですが、めちゃくちゃなことが起こりがちなエヴァの物語と、どこかいつもめちゃくちゃな世の中の空気が常にどこかリンクしていて、結果として自分ごとのようにエヴァの物語をこれまでの人生に結びつけてきたような気がします。


エヴァを振り返ることと、自分を振り返ることは最早不可分なのです。

 

***


↑ここまで「シン」鑑賞前日に書かれました。

 

↓以下「シン」鑑賞後の様子です。

 

※本編内容を含みます※

 

当日中にこの記事をアップする予定でしたが、完全に脳のCPUが過負荷に耐えきれず何も書けませんでした。

無量空処くらった漏瑚みたいな顔で帰宅するのが精一杯でした。俺は無力だ。

 

 

 

一夜明けて、先程ふせったーに箇条書きで雑記したところです。

クールダウンのために書いたのであまりまとまりはありません。参考まで。

 

 

↓以下本編です。 


<責任と、生きること>

 

「旧劇場版のアップデート」が目標だったんだなと、そう強く感じました。

ゲンドウやミサトといった、当時は子世代から見た漠然とした大人像として描写されたキャラクターが、長い時間を経て物語の中で語られるべき大人として登場しました。


エヴァを終わらせる」のは商業的に完結を迎えるというだけではありません。

「シン」で「落とし前」や「ケリをつける」といった類のセリフがキャラクターから何度か語られますが、これは制作側のエヴァ完結を全うする責任の現れでしょう。「決着させる」姿勢自体が劇中の大人してのあり方に反映されていることは想像に難くありません。


「大人になれ、シンジ」

「僕には何が大人なのか、わかりません」

 

このやりとりの決着こそ、本作完結の骨子のひとつでした。

 

一方、生きること、命をつなぐことが前半で強調されます。

 

このテーマは「破」の海洋再生施設での一連の流れからアスカの「もらった生命は残さず食べつくせ」といったセリフから既にその萌芽がありましたが、「シン」でついに真正面から向き合う形になりました。

 

人も猫も関係なく生き物として種を残すこと。

人は他の種を守り残せる可能性があること。

子がいなくても誰かに自分の意志を託し、誰かを生かす形になること。

時間の許す限り、様々な形で「生きてつなぐ」ことが描写され、一種の道徳性すら感じられました。


ぶっちゃけ「シン」で表現されてる「大人とは」とか「生きるとは」みたいなテーマって、みんな頭ではわかってることだと思うんですよね。

ただ14年かけて、今あらためてエヴァでそれを描写することの意義は、鑑賞者各々が向き合わなければなりません。


「うんうん、そうだよね」と首肯できる人もいれば「うるせーそんなことエヴァで語るなや」と反発したくなる人もいるでしょう。リトマス紙的というか、根が深いオタクほどどちらかに転ぶと思うんです。

もちろんそういった反応込みで本作は作られていると思いますし、だからこそ最終盤で各キャラの結末を徹底して描いたんじゃないかと思います。

個人的には今のところは「ああ、みんなそうやっていろんなところへ向かうんだね」と比較的穏やかな気持ちです。ただこれは初回の鑑賞で整理しきれていない部分が多いので、2回目以降で全然変わってくるかもしれません。

 

***


生きるとは何ぞやみたいなことを考えていると、「風立ちぬ」のキャッチコピーであった「生きねば」を思い出します。

これは漫画版ナウシカの最終話ラストのコマが元になっているのですが、直前のコマでナウシカは群衆に「さあみんな 出発しましょう どんなに苦しくとも」と語りかけます。

 

エヴァの世界にナウシカのような先導者は現れませんでした。

ただ誰かが、他の誰かにとっての生きる導きとなってそれぞれの出発を果たせたこと。それによって鑑賞者含めひとりひとりの生命の可能性を肯定しているように感じるのです。


庵野流「生きねば」が、「シン」の目指す先だったのではないでしょうか。


"It's only love"

www.youtube.com

「声優は結婚するもの」「忘年会は面倒なもの」あらゆるものから建前がなくなる時代

突然の声優の結婚報告ラッシュで新年から生きる気力を失っている方々が多々いらっしゃるようです。

個人的に結婚おおいに結構なのですが、ああやって示し合わせたように発表されるのはいかにも日本人らしいといいますか、事務所も関係取引先も所属する声優の慶事くらい周りを気にせず堂々と発表なさったらいかがですかという印象です。

それほどに女性声優の結婚への建前がひどく凝り固まったものであり、特にタレント的に活躍されている方にとってはセンシティブな話題のようです。最近はまぞくと魔法少女が結婚していましたし、声優とスポーツ選手の結婚もなんら問題ないでしょう。

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一方報道の不正確さへのカウンターとしてではありますが、庵野秀明というキーパーソンが数十年続くエヴァコンテンツの根幹を公開する時代がきてしまいました。

 

これまで新劇場版ヱヴァが延期になる度にインターネットは庵野何やってんのと騒ぎ立てていたわけですが、これを読む限りクリエイターが自身の創作に没頭できるような環境ではなかったことは明白であります。むしろ関係者がやっと『シン』の公開までこぎつけてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

しかしながらこの記事はかつてオタク産業の一端を大きく担ったガイナックスの凋落をまざまざと見せつけるものであり、古巣の実態をこのような形で世間に公開しなければならなった庵野秀明本人や関係者、そしてかつてガイナックス作品に強い憧れや関心を寄せた人々の気持ちもまた大きく揺らがせてしまうものです。

ガイナ全盛期の多くの主要クリエイターが既にカラーやトリガーに移り、最近でも『プロメア』などガイナの血脈を受け継ぐ作品は生まれているとはいえ、もうあの頃のガイナックスは二度と戻らないと思うとやるせない気持ちになります。アニメ制作会社には後ろめたい部分もある、そんな直視したくない現実が揺るぎない事実としてつきつけられました。

社会の建前がなくなっていく

芸能人は結婚するもの、どんな有名な人も逮捕される、大企業は永続しない、残業はしたくないもの、忘年会は行きたくないもの…「建前」が崩壊し、今までほんのり感じていた公然の秘密のように扱われていた人々の「本音」が一気に表層化してきました。釘宮理恵が確立した、本音と建前の到達点であるツンデレキャラというジャンルが落ち着きを見せ、「やさしいせかい」と表現されるような素直でストレートなキャラが支持されるようになったのも無関係ではないでしょう。

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一般的なツンデレの一例

 

「今まで強制されていた悪習がなくなってよろしい」という面もあり個人的にも歓迎なのですが、「集団の建前」はこれまで日本人を強く規定してきたルールでありますから、これがなくなると一気に集団としての日本人の行動力が落ちる時代が来そうだなあと危惧しています。

一種強迫的な面もあるのですが、これまで様々な組織が個ではなく集団の目標達成を優先して動いてきたわけで、個の本音の優先度が上がってくると組織での意思統一に別の方法を模索しなければなりません。


前述の忘年会もこれまで「忘年会やるぞ社員全員参加!」と社長の一言で済んでいた会合も、各社員の出欠を確認して店選びをするようになるので、決定まで手間も時間もかかります。さらに出欠の確認はその場で一回聞けば終わるものではなく「あの人が出るなら行かない」など、幹事の知るところでない政治的な面もカバーしなればならず苦労が絶えません。結果として店選びが遅くなり、中途半端な規模の店で微妙な会になる未来が待っています。これは決して私の経験談ではなくフィクションです。

つまり我々日本人は、組織としてこれまでケアしてこなかった組織内での個人の意思を、結構真面目に相手しなければならなくなってきているわけです。

■結局強制されてしまう「選択の自由」

建前的な集団の行動原理が弱まると、すべて個人が考え、選択しなければなりません。それでいながら社会の画一的な規範や所属する組織のルールは依然存在するわけでして、「空気は読みながら自分の責任で選択」するという非常に高度な生き方が求められるようになります。選択肢が増え自由になったように見える世の中ですが、その分選択の責任は個人自身に帰属しますから、自己責任論が容赦なくふりかかる時代が訪れそうです。ましてや企業や学校への信頼度が下がっているのですから、さらに個人ベースで生き抜く思想が強制されるようになりそうです。ドラマなどでマイペースを貫く主人公像が支持されたり、自分の生き方を曲げないような姿勢のタレントが支持されるようになってきたのもその一環ではないでしょうか。


しかしながら皆が皆そうした生き方ができるわけではありません。

あらゆるものから建前がなくなる時代選択する意志が弱い人、そもそもいちいちなんでも選択すること自体面倒という人も多くおられることでしょう。そういった人には選択の自由はむしろネガティブに捉えられ、せっかくのチャンスも蔑ろにされてしまいそうです。さらにこれだけさまざまな場面で選択、選択と迫られる生き方では、何かあったときの社会的救済すら自己責任を理由に与えられないようなことも起きかねません。最近のサロンビジネスなんかも「何か正しい選択した気になってしまう」点でかなり危うい誘惑だなあと思っています。


いずれにせよ様々な場面で選択を迫られる以上、選択をするという行為そのものの経験値を貯めていくしかなさそうです。金も時間もない我々ですが、まずは小さな選択から達成させるスキームを自分の中でこなし、「これなら自分にもできた」という経験値の積み重ねを持って次の選択に備えるしかなさそうです。


アラサーもベテランの域に入ってきて、2019年がかなりモヤモヤしたことが多かったので思考整理的に少し真面目なことを書いてみました。

昨今のなろう系アニメの乱発ですっかり視聴アニメ本数が少なくなっており、また劇場アニメは良質な作品が多いもののブログでは語りづらい面があり早口なキモ・オタク記事が少なくなっており恐れ入ります。

最近は同人誌寄稿が多くなってきておりますので、主にアニクリと感傷マゾシリーズをご参考いただけると幸いです。

本年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

本音×建前 カルタ

本音×建前 カルタ

  • 発売日: 2012/04/22
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

【おしらせ】文フリ頒布の合同誌『感傷マゾ vol.03』に参加しています

 

ご無沙汰しております。

この三ヶ月の間に離島行ったり山奥行ったり台風で避難したり空の青さを知ったり労働が爆発したりするなどしていました(近況終わり)

 

そんな中前回の記事でも登場したわく@wakさん主宰の合同誌「感傷マゾ」シリーズの三冊目、架空のノスタルジー特集に参加するべく小石を積むようなペースで原稿を書き、なんとか上梓にこぎつけました。

詳細については冒頭のわくさんのツイートを参照ください。ツリーで有用なことがたくさん書かれています。

 

また今回の表紙はDカップ女子大生漫画家ミュージシャン(属性が多い)として有名なノッツ@knotscreamさんにお願いできました。氏とは10年来のインターネットを通じた間柄ですが、こうした形でご助力願う日が来るとは露にも思いませんでした。

以下がその表紙になります。最高ですね。

 

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氏のホームページがこちらです。ゼロ年代前半の趣を残す温かいインターネットです。

knots.main.jp

 

わくさんに「ねえ、次の表紙はノッツさんがいいですよ、ねえ、ほら…」と以下のリンクを見せながらプレゼンしたところわくさんから「ああ、いい…」というお気持ちをいただきましたので今回の運びとなりました。

 

そんな夏休みを過ごしたいだけの人生だったwww.pixiv.net

 

「感傷マゾってなんぞや」という方もまだたくさんおられると思いますが、本誌を読んだり本誌参加者をフォローしたり、参加者たちがボソボソ壁打ちのように「いい…いい…」とつぶやきまくっているさまざまなコンテンツにふれることでその一端を知ることができるでしょう。

 

表紙の話しかしていませんが、僕は東京に疲れたアラサーOLがVRにふりまわされる話を書きました。紹介終わり。本当は初めての一次創作の上に1万字くらい書いたから読んでほしい…という我欲にまみれています。

 

文フリは11/24日曜日、スペース ネ-34でゲットだ!

今日はこの曲でお別れです。作詞作曲編曲演奏歌イラスト動画編集全部ひとりって何?

 

www.youtube.com

 

私的記録:7月18日と7月19日について

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この記事は本来であれば先週の20日には更新されていて「誠くん!!新海誠クゥン!!!やってくれたねェ!!!」と、かつてないほどのクソキモオタムーヴで19日に公開された天気の子の感想を感情のままに述べる予定だった。

 

けれど既報のとおり、社会的にも可能ならば今からでも消し去りたい事態が7月18日に起きた。例えばそれがエンドレスエイトのそれのように、何か途方もない方法であっても避けられるやり方があるならそうしたいくらいの事態だった。人的・物的被害はさることながら、これまで発表された数々の京アニ作品が強制的に「悲劇の遺作」にさせられてしまったことがやりきれない。

純粋に人を楽しませるために提供された作品に影を落とされ、ファンがお気に入りの作品に持つポジティブな感情に、今回の悲劇が呪いのように紐づけられた。作品を、そしてその世界中のファンが瞬時に傷つけられた事実に、どう向きあえというのか。

 

さらに言うなら「もう純粋にアニメを楽しめないのではないか」という不安が事件の続報と共に刻々と増していった。多くのプロによって作られる二次元の世界があまりにも脆すぎるもののように感じられ、もうアニメの世界に没入できないのではと思われたからだ。
少しずつ報じられる実名入りの訃報に、かつて作品を通じて得た感動やスタッフへの畏敬の念が、じわじわと蝕まれていくのがわかった。

 

 

そうした感情を抱えながら翌日の19日の夜、わく@wakさんと新宿で会った。天気の子の鑑賞のためだ。上映まで1時間ほどあったので、台湾料理屋に少し居座ることにした。新宿紀伊国屋は天気の子のキャンペーンを大々的に行っていて、行き交う人々も含め新宿という街は昨日の事件とは関係なく平常通り稼働しているよう見えた。

わくさんは一見には入りづらそうな中華屋なんかに入り込むのがうまい。今回入った台湾料理屋も決してジャパナイズされておらず、飾り気のない白地の皿にドンと置かれた八角の効いた餅のような料理やちまきが出てくるような店で、食感から台湾の片隅に来たような感覚になれる。ちなみに僕は台湾に行ったことがないし、わくさんは飛行機に乗れないので本物の台湾がどんなのかを知る機会はしばらくなさそうだ。

わくさんとは昨日の話は一切しなかった。話していたら、期待に期待してきた三年ぶりの新海誠作品を、少なくとも僕は本当に楽しめなくなってしまう気がしたからだ。僕らはどこか不安を脳内で増大しがちなので、鑑賞中に模倣犯が飛び込んできたら、などとしても仕方ない心配に心が疲れてしまう気もした。
どんな傑作も理不尽な暴力の前には無力、そう思いたくなかった。

 

そして鑑賞を終えた22時過ぎ、僕らは純粋な興奮の中にいた。


天気の子については既に多くの方が述べている感想にほぼ同意している。私は既に体組織のほとんどを新海誠によってコンバートされているため、予告を見た時点で「ははあ、今回は雲の向こう、約束の場所以来のガッチガチのセカイ系やな」と細胞レベルで理解していた。けれどその予感を以てすら本作の奔流を受け止めきれず、二時間の鑑賞の後、洗礼のように体のあちこちにさらに深く新海イズムがねじこまれることになった。
小栗旬藤原啓治にも劣らないくたびれた中年の演技、今作ダントツで抜群の演技を見せつけた吉柳咲良、前作より柔軟性を感じるRADWIMPSの劇伴、行動原理が破たんしているにも関わらず力技でまとめきったストーリー…語るべきことはたくさんあった。わくさんと帰路についた金曜の夜の歌舞伎町の中で、間違いなく我々は天気の子で描かれた新宿の中にいた。

 

そして何よりアニメーションをめぐる未曾有の悲劇から感じた不安や悲哀は、まったく無関係な二時間のアニメーションによって、完全とは言わずとも大きく払拭されていた。

現金なやつと思われるかもしれない。実際それで立ち直れる程度だったのだと言われても仕方ないのかもしれない。しかしアニメーションが私を少しでも勇気づけてくれた事実は頑として変わらない。

 

アニメーションの語源には「命を吹き込む」という意味がある。

本来であれば、制作者が連続した静止画にさまざまな効果や音声をつけて動いているモノに仕上げる行為を指しているだろう。しかしアニメーションそのものが視聴者である私たちに、多かれ少なかれ命を吹き込んでくれているからこそ、こうして絶望したり、また励まされている。

アニメーションというエンターテインメントのメディアを通して、その向こうにいる制作者や鑑賞者たちがよりよく生きようとする関係をこの2日間で強く感じた。

 

呪いたくなるような事実や人間が人生を阻むが、私達の今後の人生までそれらに必要以上にひきずられ、呪われることがないように気をつけなければならない。

幸いにもこうしてブログが書ける程度には健康であるうちは、この日常を維持して、心打がしてくれた作品について細々語るのが、遠すぎる当事者である自分にできることであるように思う。