(きっと)最後の作文 - 「僕とエヴァンゲリオン」
*↓ここから「シン」鑑賞前に書きました*
一年程ブログに間が空いてしまいました。正直この一年結構いろいろあったのですが、どうも記事にする方向に意識が向かずここまで来てしまいました。
先日から「シン」公開前にも関わらず「私とエヴァ」といったテーマの記事がちらほらあがってきています。やはりこの14年(TV版から数えれば26年)という時間はあまりにも長く、エヴァを語ることは同時にその人の人生を振り返ることに直結しているようです。
したがってこの記事も自分語りから始まります。
***
地上波テレビ不毛の地であった青森で、小学生の頃にポケモンの後に放映されていたのがTV版エヴァでした。年少者にとってそれは抗えない無慈悲な洗礼であり、僕のエヴァの呪縛はそこから始まりました。
内容の理解はさっぱりでしたが、最終2話の裏返しセル画や線画で構成された画面に、強烈な印象を受けたのをよく覚えています。
アニメ雑誌なんて読んだことありませんでしたし、インターネットもなかったのでいかに作品のインパクトがあったかを裏付けています。
時は流れ大学に入り、都会での一人暮らしによるハイな気分も落ち込んできたあたりで旧劇場版に出会いました。
それまでの受験に向けたタイトに時間感覚から解放され、逆に間延びした生活したサイクルの中で漠然とした将来への不安が増していました。その不安の捌け口がどういうわけか旧劇場版に向かってしまい、毎晩朝方まで見返す時期が3ヶ月ほど続きました。
「俺にはどうしてミサトさんがいないんだ」などとぼやいているうち、2年前期の単位をそれなりに落としました。(午前中全く起きれなかった)
ただ悪いことはばかりではなく、旧劇場版によって「人は完全には分かりあえないという前提で他人と向き合わなければならない」というシンプルながら大切なことに気がつけたように思います。
この頃からエヴァの裏設定的などにはあまり関心が向かず、それぞれのキャラクターの生き様や関係に意識が向いていきました。それは今でも変わっていません。
そのまま学生生活は典型的な夜型に突入し、程なくして深夜アニメにやたら力を入れていたテレビ神奈川の誘惑にまんまとはまりました。
「このストライクウィッチーズという素晴らしいアニメの監督はガイナックス出身なのか!」といった発見から、グレンラガン、カレカノ、フリクリとガイナ作品をどんどん取り込んでいくうちに新海誠作品に出会いました。
在学中に公開された序・破の後押しもあり、結局卒論のテーマにエヴァと新海誠を軸としたセカイ系を取り上げるに至ります。
ここで人生が後戻りできない方向に定まりました。
みんなテレビ神奈川が悪い。嘘です。
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2007年公開の「序」から2021年現在まで、いろんなことが変わりました。
ドコモのネルフコラボ携帯はまだガラケーでしたし、序DVD発売時にはトイレしか写ってないフィルムがヤフオクで高値で取引されました。
それまでちょっとキワモノ扱いだったアニメのコラボ商品やキャンペーンが当たり前のようにコンビニや百貨店で展開され、紫と黄緑の初号機カラーリングを目にしない日はなくなりました。
そういえばEVASTOREでやってた「エヴァグッズと撮るご当地フォトコンテスト」みたいなのがありまして、入賞してタンブラーもらったりもしました。2012年とかだったと思うのでもうインターネット上に何も残ってないですが…。
↓その時の写真です。
あとこのブログのアカウントの真希波アイコン、かつて相互フォロワーだった人に描いてもらったやつなんですよ。9年くらい前だと思うんですが、いつの間にかアカウントなくなってて、もう連絡つかないんですよね。
1コンテンツを振り返るにはあまりに長い時間が過ぎました。
僕はといえば今年で社会人10年目を終えようとしています。なんの冗談ですか?
「Q」公開の頃「劇場版完結するまでは生きたいな」とか半分冗談半分本気で思っていましたが、ついぞその日が来てしまいました。
なんとなくですが、めちゃくちゃなことが起こりがちなエヴァの物語と、どこかいつもめちゃくちゃな世の中の空気が常にどこかリンクしていて、結果として自分ごとのようにエヴァの物語をこれまでの人生に結びつけてきたような気がします。
エヴァを振り返ることと、自分を振り返ることは最早不可分なのです。
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みんな、今までありがとう pic.twitter.com/pfkkbFUei7
— サカウヱ (@sakasakaykhm) 2021年3月9日
↑ここまで「シン」鑑賞前日に書かれました。
↓以下「シン」鑑賞後の様子です。
※本編内容を含みます※
当日中にこの記事をアップする予定でしたが、完全に脳のCPUが過負荷に耐えきれず何も書けませんでした。
無量空処くらった漏瑚みたいな顔で帰宅するのが精一杯でした。俺は無力だ。
やっとこの状態から戻ってきました、記事のウピーロードは明日になります pic.twitter.com/eePSmUVpvL
— サカウヱ (@sakasakaykhm) 2021年3月9日
一夜明けて、先程ふせったーに箇条書きで雑記したところです。
クールダウンのために書いたのであまりまとまりはありません。参考まで。
シン・感想箇条書き(追記部分参照)
— サカウヱ (@sakasakaykhm) 2021年3月10日
まとまった記事は別途作成中です。 https://t.co/XI53CbB44y
↓以下本編です。
<責任と、生きること>
「旧劇場版のアップデート」が目標だったんだなと、そう強く感じました。
ゲンドウやミサトといった、当時は子世代から見た漠然とした大人像として描写されたキャラクターが、長い時間を経て物語の中で語られるべき大人として登場しました。
「エヴァを終わらせる」のは商業的に完結を迎えるというだけではありません。
「シン」で「落とし前」や「ケリをつける」といった類のセリフがキャラクターから何度か語られますが、これは制作側のエヴァ完結を全うする責任の現れでしょう。「決着させる」姿勢自体が劇中の大人してのあり方に反映されていることは想像に難くありません。
「大人になれ、シンジ」
「僕には何が大人なのか、わかりません」
このやりとりの決着こそ、本作完結の骨子のひとつでした。
一方、生きること、命をつなぐことが前半で強調されます。
このテーマは「破」の海洋再生施設での一連の流れからアスカの「もらった生命は残さず食べつくせ」といったセリフから既にその萌芽がありましたが、「シン」でついに真正面から向き合う形になりました。
人も猫も関係なく生き物として種を残すこと。
人は他の種を守り残せる可能性があること。
子がいなくても誰かに自分の意志を託し、誰かを生かす形になること。
時間の許す限り、様々な形で「生きてつなぐ」ことが描写され、一種の道徳性すら感じられました。
ぶっちゃけ「シン」で表現されてる「大人とは」とか「生きるとは」みたいなテーマって、みんな頭ではわかってることだと思うんですよね。
ただ14年かけて、今あらためてエヴァでそれを描写することの意義は、鑑賞者各々が向き合わなければなりません。
「うんうん、そうだよね」と首肯できる人もいれば「うるせーそんなことエヴァで語るなや」と反発したくなる人もいるでしょう。リトマス紙的というか、根が深いオタクほどどちらかに転ぶと思うんです。
もちろんそういった反応込みで本作は作られていると思いますし、だからこそ最終盤で各キャラの結末を徹底して描いたんじゃないかと思います。
個人的には今のところは「ああ、みんなそうやっていろんなところへ向かうんだね」と比較的穏やかな気持ちです。ただこれは初回の鑑賞で整理しきれていない部分が多いので、2回目以降で全然変わってくるかもしれません。
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生きるとは何ぞやみたいなことを考えていると、「風立ちぬ」のキャッチコピーであった「生きねば」を思い出します。
これは漫画版ナウシカの最終話ラストのコマが元になっているのですが、直前のコマでナウシカは群衆に「さあみんな 出発しましょう どんなに苦しくとも」と語りかけます。
ただ誰かが、他の誰かにとっての生きる導きとなってそれぞれの出発を果たせたこと。それによって鑑賞者含めひとりひとりの生命の可能性を肯定しているように感じるのです。
庵野流「生きねば」が、「シン」の目指す先だったのではないでしょうか。
"It's only love"
「声優は結婚するもの」「忘年会は面倒なもの」あらゆるものから建前がなくなる時代
突然の声優の結婚報告ラッシュで新年から生きる気力を失っている方々が多々いらっしゃるようです。
個人的に結婚おおいに結構なのですが、ああやって示し合わせたように発表されるのはいかにも日本人らしいといいますか、事務所も関係取引先も所属する声優の慶事くらい周りを気にせず堂々と発表なさったらいかがですかという印象です。
それほどに女性声優の結婚への建前がひどく凝り固まったものであり、特にタレント的に活躍されている方にとってはセンシティブな話題のようです。最近はまぞくと魔法少女が結婚していましたし、声優とスポーツ選手の結婚もなんら問題ないでしょう。
一方報道の不正確さへのカウンターとしてではありますが、庵野秀明というキーパーソンが数十年続くエヴァコンテンツの根幹を公開する時代がきてしまいました。
これまで新劇場版ヱヴァが延期になる度にインターネットは庵野何やってんのと騒ぎ立てていたわけですが、これを読む限りクリエイターが自身の創作に没頭できるような環境ではなかったことは明白であります。むしろ関係者がやっと『シン』の公開までこぎつけてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
しかしながらこの記事はかつてオタク産業の一端を大きく担ったガイナックスの凋落をまざまざと見せつけるものであり、古巣の実態をこのような形で世間に公開しなければならなった庵野秀明本人や関係者、そしてかつてガイナックス作品に強い憧れや関心を寄せた人々の気持ちもまた大きく揺らがせてしまうものです。
ガイナ全盛期の多くの主要クリエイターが既にカラーやトリガーに移り、最近でも『プロメア』などガイナの血脈を受け継ぐ作品は生まれているとはいえ、もうあの頃のガイナックスは二度と戻らないと思うとやるせない気持ちになります。アニメ制作会社には後ろめたい部分もある、そんな直視したくない現実が揺るぎない事実としてつきつけられました。
■社会の建前がなくなっていく
芸能人は結婚するもの、どんな有名な人も逮捕される、大企業は永続しない、残業はしたくないもの、忘年会は行きたくないもの…「建前」が崩壊し、今までほんのり感じていた公然の秘密のように扱われていた人々の「本音」が一気に表層化してきました。釘宮理恵が確立した、本音と建前の到達点であるツンデレキャラというジャンルが落ち着きを見せ、「やさしいせかい」と表現されるような素直でストレートなキャラが支持されるようになったのも無関係ではないでしょう。
「今まで強制されていた悪習がなくなってよろしい」という面もあり個人的にも歓迎なのですが、「集団の建前」はこれまで日本人を強く規定してきたルールでありますから、これがなくなると一気に集団としての日本人の行動力が落ちる時代が来そうだなあと危惧しています。
一種強迫的な面もあるのですが、これまで様々な組織が個ではなく集団の目標達成を優先して動いてきたわけで、個の本音の優先度が上がってくると組織での意思統一に別の方法を模索しなければなりません。
前述の忘年会もこれまで「忘年会やるぞ社員全員参加!」と社長の一言で済んでいた会合も、各社員の出欠を確認して店選びをするようになるので、決定まで手間も時間もかかります。さらに出欠の確認はその場で一回聞けば終わるものではなく「あの人が出るなら行かない」など、幹事の知るところでない政治的な面もカバーしなればならず苦労が絶えません。結果として店選びが遅くなり、中途半端な規模の店で微妙な会になる未来が待っています。これは決して私の経験談ではなくフィクションです。
つまり我々日本人は、組織としてこれまでケアしてこなかった組織内での個人の意思を、結構真面目に相手しなければならなくなってきているわけです。
■結局強制されてしまう「選択の自由」
建前的な集団の行動原理が弱まると、すべて個人が考え、選択しなければなりません。それでいながら社会の画一的な規範や所属する組織のルールは依然存在するわけでして、「空気は読みながら自分の責任で選択」するという非常に高度な生き方が求められるようになります。選択肢が増え自由になったように見える世の中ですが、その分選択の責任は個人自身に帰属しますから、自己責任論が容赦なくふりかかる時代が訪れそうです。ましてや企業や学校への信頼度が下がっているのですから、さらに個人ベースで生き抜く思想が強制されるようになりそうです。ドラマなどでマイペースを貫く主人公像が支持されたり、自分の生き方を曲げないような姿勢のタレントが支持されるようになってきたのもその一環ではないでしょうか。
しかしながら皆が皆そうした生き方ができるわけではありません。
あらゆるものから建前がなくなる時代選択する意志が弱い人、そもそもいちいちなんでも選択すること自体面倒という人も多くおられることでしょう。そういった人には選択の自由はむしろネガティブに捉えられ、せっかくのチャンスも蔑ろにされてしまいそうです。さらにこれだけさまざまな場面で選択、選択と迫られる生き方では、何かあったときの社会的救済すら自己責任を理由に与えられないようなことも起きかねません。最近のサロンビジネスなんかも「何か正しい選択した気になってしまう」点でかなり危うい誘惑だなあと思っています。
いずれにせよ様々な場面で選択を迫られる以上、選択をするという行為そのものの経験値を貯めていくしかなさそうです。金も時間もない我々ですが、まずは小さな選択から達成させるスキームを自分の中でこなし、「これなら自分にもできた」という経験値の積み重ねを持って次の選択に備えるしかなさそうです。
アラサーもベテランの域に入ってきて、2019年がかなりモヤモヤしたことが多かったので思考整理的に少し真面目なことを書いてみました。
昨今のなろう系アニメの乱発ですっかり視聴アニメ本数が少なくなっており、また劇場アニメは良質な作品が多いもののブログでは語りづらい面があり早口なキモ・オタク記事が少なくなっており恐れ入ります。
最近は同人誌寄稿が多くなってきておりますので、主にアニクリと感傷マゾシリーズをご参考いただけると幸いです。
本年もどうぞよろしくお願いします。
【おしらせ】文フリ頒布の合同誌『感傷マゾ vol.03』に参加しています
【告知】11/24(日)に開催する第二十九回文学フリマ東京で、「架空のノスタルジー」をテーマにした『感傷マゾvol.03』を頒布します。場所は、ネ-34です。 pic.twitter.com/pwt1250ft5
— かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン@文フリ東京ネ-34 (@wak) November 10, 2019
ご無沙汰しております。
この三ヶ月の間に離島行ったり山奥行ったり台風で避難したり空の青さを知ったり労働が爆発したりするなどしていました(近況終わり)
そんな中前回の記事でも登場したわく@wakさん主宰の合同誌「感傷マゾ」シリーズの三冊目、架空のノスタルジー特集に参加するべく小石を積むようなペースで原稿を書き、なんとか上梓にこぎつけました。
詳細については冒頭のわくさんのツイートを参照ください。ツリーで有用なことがたくさん書かれています。
また今回の表紙はDカップ女子大生漫画家ミュージシャン(属性が多い)として有名なノッツ@knotscreamさんにお願いできました。氏とは10年来のインターネットを通じた間柄ですが、こうした形でご助力願う日が来るとは露にも思いませんでした。
以下がその表紙になります。最高ですね。
氏のホームページがこちらです。ゼロ年代前半の趣を残す温かいインターネットです。
わくさんに「ねえ、次の表紙はノッツさんがいいですよ、ねえ、ほら…」と以下のリンクを見せながらプレゼンしたところわくさんから「ああ、いい…」というお気持ちをいただきましたので今回の運びとなりました。
「感傷マゾってなんぞや」という方もまだたくさんおられると思いますが、本誌を読んだり本誌参加者をフォローしたり、参加者たちがボソボソ壁打ちのように「いい…いい…」とつぶやきまくっているさまざまなコンテンツにふれることでその一端を知ることができるでしょう。
表紙の話しかしていませんが、僕は東京に疲れたアラサーOLがVRにふりまわされる話を書きました。紹介終わり。本当は初めての一次創作の上に1万字くらい書いたから読んでほしい…という我欲にまみれています。
文フリは11/24日曜日、スペース ネ-34でゲットだ!
今日はこの曲でお別れです。作詞作曲編曲演奏歌イラスト動画編集全部ひとりって何?
私的記録:7月18日と7月19日について
この記事は本来であれば先週の20日には更新されていて「誠くん!!新海誠クゥン!!!やってくれたねェ!!!」と、かつてないほどのクソキモオタムーヴで19日に公開された天気の子の感想を感情のままに述べる予定だった。
けれど既報のとおり、社会的にも可能ならば今からでも消し去りたい事態が7月18日に起きた。例えばそれがエンドレスエイトのそれのように、何か途方もない方法であっても避けられるやり方があるならそうしたいくらいの事態だった。人的・物的被害はさることながら、これまで発表された数々の京アニ作品が強制的に「悲劇の遺作」にさせられてしまったことがやりきれない。
純粋に人を楽しませるために提供された作品に影を落とされ、ファンがお気に入りの作品に持つポジティブな感情に、今回の悲劇が呪いのように紐づけられた。作品を、そしてその世界中のファンが瞬時に傷つけられた事実に、どう向きあえというのか。
さらに言うなら「もう純粋にアニメを楽しめないのではないか」という不安が事件の続報と共に刻々と増していった。多くのプロによって作られる二次元の世界があまりにも脆すぎるもののように感じられ、もうアニメの世界に没入できないのではと思われたからだ。
少しずつ報じられる実名入りの訃報に、かつて作品を通じて得た感動やスタッフへの畏敬の念が、じわじわと蝕まれていくのがわかった。
そうした感情を抱えながら翌日の19日の夜、わく@wakさんと新宿で会った。天気の子の鑑賞のためだ。上映まで1時間ほどあったので、台湾料理屋に少し居座ることにした。新宿紀伊国屋は天気の子のキャンペーンを大々的に行っていて、行き交う人々も含め新宿という街は昨日の事件とは関係なく平常通り稼働しているよう見えた。
わくさんは一見には入りづらそうな中華屋なんかに入り込むのがうまい。今回入った台湾料理屋も決してジャパナイズされておらず、飾り気のない白地の皿にドンと置かれた八角の効いた餅のような料理やちまきが出てくるような店で、食感から台湾の片隅に来たような感覚になれる。ちなみに僕は台湾に行ったことがないし、わくさんは飛行機に乗れないので本物の台湾がどんなのかを知る機会はしばらくなさそうだ。
わくさんとは昨日の話は一切しなかった。話していたら、期待に期待してきた三年ぶりの新海誠作品を、少なくとも僕は本当に楽しめなくなってしまう気がしたからだ。僕らはどこか不安を脳内で増大しがちなので、鑑賞中に模倣犯が飛び込んできたら、などとしても仕方ない心配に心が疲れてしまう気もした。
どんな傑作も理不尽な暴力の前には無力、そう思いたくなかった。
そして鑑賞を終えた22時過ぎ、僕らは純粋な興奮の中にいた。
天気の子については既に多くの方が述べている感想にほぼ同意している。私は既に体組織のほとんどを新海誠によってコンバートされているため、予告を見た時点で「ははあ、今回は雲の向こう、約束の場所以来のガッチガチのセカイ系やな」と細胞レベルで理解していた。けれどその予感を以てすら本作の奔流を受け止めきれず、二時間の鑑賞の後、洗礼のように体のあちこちにさらに深く新海イズムがねじこまれることになった。
小栗旬の藤原啓治にも劣らないくたびれた中年の演技、今作ダントツで抜群の演技を見せつけた吉柳咲良、前作より柔軟性を感じるRADWIMPSの劇伴、行動原理が破たんしているにも関わらず力技でまとめきったストーリー…語るべきことはたくさんあった。わくさんと帰路についた金曜の夜の歌舞伎町の中で、間違いなく我々は天気の子で描かれた新宿の中にいた。
そして何よりアニメーションをめぐる未曾有の悲劇から感じた不安や悲哀は、まったく無関係な二時間のアニメーションによって、完全とは言わずとも大きく払拭されていた。
現金なやつと思われるかもしれない。実際それで立ち直れる程度だったのだと言われても仕方ないのかもしれない。しかしアニメーションが私を少しでも勇気づけてくれた事実は頑として変わらない。
アニメーションの語源には「命を吹き込む」という意味がある。
本来であれば、制作者が連続した静止画にさまざまな効果や音声をつけて動いているモノに仕上げる行為を指しているだろう。しかしアニメーションそのものが視聴者である私たちに、多かれ少なかれ命を吹き込んでくれているからこそ、こうして絶望したり、また励まされている。
アニメーションというエンターテインメントのメディアを通して、その向こうにいる制作者や鑑賞者たちがよりよく生きようとする関係をこの2日間で強く感じた。
呪いたくなるような事実や人間が人生を阻むが、私達の今後の人生までそれらに必要以上にひきずられ、呪われることがないように気をつけなければならない。
幸いにもこうしてブログが書ける程度には健康であるうちは、この日常を維持して、心打がしてくれた作品について細々語るのが、遠すぎる当事者である自分にできることであるように思う。
「老後2000万問題」の資料を淡々と辿ってみたらタモリに行き着いてしまった
つい先程まで5100万であったはずの老後資金が突然倍になりました。
更に読み進めると、43ページでは1億5000万必要になりました。
特に脚注されている「月額32万」はどう計算されているか僕には不明でした。
想定月額については既に同資料の21ページで図示されていますが、なぜ32万という額に至ったかまったく読み取れません。
僕がTSUTAYAに行かなくなった日
その日が来てしまった。
先日、TSUTAYAでのCDレンタルをやめることにした。
高校入りたてくらいからほぼ毎週続けていた習慣だが、十数年目にして終わらせることにした。
理由は明確で、「借りたいものが置いてない」から。
変化を感じてきたのは数年前からだった。
「新作旧作5枚で1000円」のサービスがスタートし、その後1年ほどで4枚1000円にグレードダウンした。
それでも毎週「この人たち最近よく名前見るなあ」といった具合で気になる新譜2-3枚を借り、初めて聞くアーティストの旧譜で埋めるとちょうどいい塩梅だった。
しかしここ1-2年で、通っている店舗の新譜入荷が鈍くなってきた。レジが完全にセルフレジに移行したのもこの頃だ。
宇多田ヒカルや米津玄師などロングセラー作品は、ランキング20位くらいまでの作品と共に什器の棚1列いっぱいに作品が置かれている。
しかしそれ以外の、入荷が少ないアーティストの新譜コーナーは什器の半分程度にまとめられ、元々アーティスト数も少ないヤ行やワ行は空のことが多くなった。
J-POPの他にロキノン系、いわゆる邦ロック系を蒐集している僕にとってこれは致命的だった。この手のアーティストは先述したロングセラーアーティストに比べれば1-2枚新譜が入荷してあればいい方で、新譜があれば掘り出し物のようにありがたくレンタルしていた。
新譜入荷の縮小はこのワクワク感が潰えることを意味している。
「今週は何が置いてあるかな」という期待が満たされなくなっていくのは、年々人気の減っていく地方のテーマパークを見ているような気分だった。
(それでもアニソンは比較的好調なようで、別の棚にそこそこ新譜が揃っている)
もっぱら利用している店舗は都内JRの駅ナカにある。
利用者が比較的多様と思われる東京ですら、確実に借り手がいる作品しか置かれなくなってきているようだ。
新譜で借りたいものが減り、そのうち手ぶらで帰ることも多くなった。
なんとか埋め合わせに旧譜を借りようにも、そもそも新譜が入ってこないので旧譜の棚も新陳代謝が止まっている。
苦し紛れに数合わせで有名なベスト盤なんかも借りていたが、先週「こんな借り方してても意味がない」と気付いてしまった。枚数合わせで借りるなど虚無がすぎる。
その瞬間、自分の中で長らく息づいたCDレンタルという習慣が息絶えたのがわかった。
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サンプル数n=1の印象論だろう、と反論される方もいるだろう。
しかし現実としてCDレンタルの市場規模は縮小傾向にある。
以下の資料の通り、店舗数、レンタル市場額ともに前年割れが長年続いている。
https://www.riaj.or.jp/f/pdf/issue/industry/RIAJ2018.pdf
在庫切れの不便や返却の手間を考えれば、サブスクやストリーミングを利用するのが断然便利だ。
市場原理としてレンタル事業が縮小するのは自明とも言える。
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結局、昨日先延ばしにしていたapple musicを導入することにした。
同時にiTunes matchで手持ちの音源をすべてアップロードして、これで自前の音源だけでも万単位の曲がいつでも聞けるようになった。
サブスクのサービス導入をためらっていたのは、音源を所有できない点で気持ちの折り合いがつかなかったからだ。
くだんの電気グルーヴの音源配信停止のように、サブスクではプラットフォームの意向次第でユーザーのライブラリは改変されてしまう。
何かを集めるタイプの趣味がある人ならわかると思うが、どんな理由であれ自身のコレクションに知らぬ間に手を加えられて心穏やかな人はいないだろう。
レンタルでも手元に音源を残しておくのは、僕にとって壁一面の本棚を年々少しずつ増築していくような楽しみだった。
そしてapple musicはさらに複雑な感情をもたらした。
予想以上に、あまりに便利だったからだ。
新譜の公開も早く、サジェストされる作品も的確だ。
そしてこれまで取りこぼしていた音源、特にカップリング曲なども網羅されている。気がつけば一晩で100曲近くダウンロードしていた。これでは「4枚1000円」など話にならない。
未知の音源の入手量もスピードも、月額1000円程で劇的に進化してしまった。
そしてこの進化と引き換えに、僕は音源の蒐集という習慣を完全に失うことにも気づいている。
勝手にやめておいてなんだと思われるかもしれないが、ライフワークと化した習慣がなくなることに寂しさを覚えるのはおかしいことではないだろう。
そして最も恐ろしいことは、手元に音源が増えないことで、自分の思い出の定着も弱まりそうなことだ。
ライブラリを眺めると、それぞれの音源を手に入れた頃の思い出が想起される。
今よりずっと大量に音楽を聞いていた大学の頃、新卒で縁もゆかりもない新潟に飛ばされて営業車の中でひたすら聞きまくった暗黒時代…。
サブスクで音楽を聴くようになれば、ライブラリの更新が頻繁に行われることになる。
一生かけても網羅できないほど音源が提供されるサブスクというサービスの中で、常に手持ちのライブラリは更新され続け、時間軸と共に残存した視聴履歴のレイヤーというものがなくなる。
常に最新のものしかないなら、参照する過去もないということだ。
地道に積み重ね続けたライブラリによって保たれていた思い出が、これ以上積み重ねられることがなくなる。
サブスクの導入は、それくらい僕にインパクトを与える出来事だった。
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今ライブラリを確認したところ、所有している音源は重複も含め16000曲ほどあった。
仮に15年で集めた音源だとしたら、年およそ1000曲ほど揃えてきたことになる。
もちろんもっとハイペースでたくさんの音楽を聞いてる人はたくさんいるだろうが、僕にとっては珍しく数字で残っているライフログだ。
おそらくここから、このログは一気に蓄積ペースが鈍くなるだろう。
それは同時に思い出を語ってくれる音源も少なくっていくということだ。
それでも結局これからも僕はTSUTAYAに通い、これまで通り新譜のコーナーへ向かい、まだ手に入れてない音源を発見するだろう。
ただこれまでと違うのは、きっと僕はレンタルせずにapple musicでその音源を検索し、ダウンロードしてしまうということ。
残念ながら、今の自分にこれを否定する言葉も理由も持ち合わせていない。
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俺達は伝えなければならない。俺達の愚かで、切ない歴史を。
それらを伝えるためにデジタルという魔法がある。…
メタルギアソリッド2で小島秀夫はこんなセリフをスネークに言わせている。
デジタルは有限の人間の活動に永遠性を付与してくれる。しかし一度失われた時の不可逆性も絶大だ。
0か1か、まさにデジタルそのものの特性に、僕は振り回されはじめている気がする。
レンタルのセンチメンタル
ストレスゼロならハッピー
アタマのパイプカットならOKthe pillows/インスタントミュージック
斯くして「響け!ユーフォニアム」は黄前久美子の繰り返しの物語となった
「三年生にとって最後のコンクール」
この言葉によってもたらされる苦悩は強くこびりついて離れない。
「劇場版 響け!ユーフォニアム ~誓いのフィナーレ~」が公開された。
完全新作となる本作は上下巻の原作から昨年公開された「リズと青い鳥」にあたる部分を除いたストーリーで、相当数のボリュームがある原作から「リズ」を省いた形で展開している。
次作以降の展開を考慮してか、今後の中心人物になると見られる新入生の久石奏を中心に据え、「リズ」で中心人物であった傘木希美や鎧塚みぞれに至ってはほとんど出番がない…ないのだが、それだけに終盤の活躍が輝いている。
他にもカットされた部分では合宿でのなかよし川の夫婦ぶりや黄前久美子の家政婦は見たスキルなどは健在なので、是非とも未読の方は原作で補完いただきたい。
響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編 (宝島社文庫)
- 作者: 武田綾乃
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2017/08/26
- メディア: 文庫
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久石奏以外の新入生の描写も簡素化しており、特に久石奏と剣崎梨々花との強烈な絡みがほぼ完全にカットされていたところなどから、徹底的に本筋を進めるストイックさが感じられた。
しかしながらそのようにフィーチャーされた新入生を差し押さえて、やはり本作の主人公は黄前久美子だった。
失言王と呼ばれ、同級生の胸ばかり見ていた高校一年生は、似たような道を辿りつつあった久石奏を導く二年生になった。
この久石奏への救済は、真にもがいた経験のある者しか示すことはできない。
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部活動は繰り返しの世界だ。
「最後のコンクール」だなんだと言っても、コンクール自体は毎年訪れる。部活が解散でもしない限り、おおよそコンクールは毎年開催され、部はコンクールに参加するだろう。
このような淡々としたシステマチックなスキームの上に、部活動の青春は成り立っている。
中学までの黄前久美子は、部活動のシステムに乗っているだけだった。乗っているだけだったから、ダメ金で泣くこともなかった。
「頑張るって、なんですか?」
中盤で放たれる久石奏の心情を、当時の黄前久美子では否定できなかっただろう。
けれど北宇治高校に入学し、偶々その時入部していた同級生や先輩たちと部活に参加するうちに、彼女は変わった。
滝先生が年度初めに提示する「自主性の選択」もまた、繰り返しのサイクルにどう臨むかを部員に選択させるターニングポイントと言える。
部活動の無機質な繰り返しに飛び込みもがくのは、今この瞬間にしかできない。
その愚かさにも似た姿こそが青春の一端であると強く感じる。
「私は頑張ればなにかがあるって信じてる!それは絶対無駄じゃない」
****
部活動の繰り返しは、SF的な繰り返しではない。
ハルヒやまどマギのような、永遠とも言える繰り返しの果てに救いを求めることは出来ない。
大概、部活動の繰り返しは3年で終わる。
どちらの繰り返しがより尊いものであるかなどと比較できるものではない。
しかし少なくとも限りある繰り返しこそが、部活動の青春エモをブーストさせていることに疑いはないだろう。
そして本作で最も注目すべき点は、冒頭からしばし挿入されるとある"演出"だ。
この"演出"で描かれる部員たちはいつまでもそこに留まるが、どんなに願っても実際の本人たちの意志とは無関係に離れていってしまう。
この"演出"は部活動に生きる部員たちの"今"が、限りあるものであることを強く印象づける。
おそらく劇中の部員たちはそうしたことを考える暇もなくただただ忙しく、気がつくと新入生は上級生となっていて、卒業生になって、いずれ学生でもなくなってしまう。
そんな時の流れを強烈かつ一切の飾り気なく、観客はその"演出"によって見せつけられ、自己投影をした時、その"演出"の中にかつての自分を見てしまう。
この瞬間、ある者は自らを省みて滂沱し、またある者は場合によっては青春ゾンビと成り果てるだろう。
この"演出"に見られる意図は既にけいおん!で見られるのだが(なのでこの演出は勝手に山田尚子アイデアだと思っている)、「響け!」という実直な部活動アニメでは格段のリアリティを以て鑑賞者にぶつかってくる。
原作にもないこの"演出"は、まさに映像ならではのものであり、その意外性も相まって相当の破壊力となっている。これから見られる予定の方におかれましては心してかかっていただきたい。
黄前久美子の人生は決して特別なものではない。
なんとなくのきっかけで楽器を始め、流れで吹奏楽部に入り、仲間や恋人ができて…。
彗星が落ちることも異世界に転生することもない、観客と同じ道理の世界で生きている。
それでも、本作で語られる黄前久美子の生き様は特別以外の何者でもないことを、我々はまったく否定できない。
それを最も理解しているのは、本当に繰り返しのない今を生きる我々観客なのだから。
追い求めた影の光も 消え去り今はただ
君の耳と鼻の形が愛しい
忘れないで 二人重ねた日々は
この世に生きた意味を 超えていたことを
スピッツ/君が思い出になる前に