【おしらせ】文フリ頒布の合同誌『感傷マゾ vol.03』に参加しています
【告知】11/24(日)に開催する第二十九回文学フリマ東京で、「架空のノスタルジー」をテーマにした『感傷マゾvol.03』を頒布します。場所は、ネ-34です。 pic.twitter.com/pwt1250ft5
— かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン@文フリ東京ネ-34 (@wak) November 10, 2019
ご無沙汰しております。
この三ヶ月の間に離島行ったり山奥行ったり台風で避難したり空の青さを知ったり労働が爆発したりするなどしていました(近況終わり)
そんな中前回の記事でも登場したわく@wakさん主宰の合同誌「感傷マゾ」シリーズの三冊目、架空のノスタルジー特集に参加するべく小石を積むようなペースで原稿を書き、なんとか上梓にこぎつけました。
詳細については冒頭のわくさんのツイートを参照ください。ツリーで有用なことがたくさん書かれています。
また今回の表紙はDカップ女子大生漫画家ミュージシャン(属性が多い)として有名なノッツ@knotscreamさんにお願いできました。氏とは10年来のインターネットを通じた間柄ですが、こうした形でご助力願う日が来るとは露にも思いませんでした。
以下がその表紙になります。最高ですね。
氏のホームページがこちらです。ゼロ年代前半の趣を残す温かいインターネットです。
わくさんに「ねえ、次の表紙はノッツさんがいいですよ、ねえ、ほら…」と以下のリンクを見せながらプレゼンしたところわくさんから「ああ、いい…」というお気持ちをいただきましたので今回の運びとなりました。
「感傷マゾってなんぞや」という方もまだたくさんおられると思いますが、本誌を読んだり本誌参加者をフォローしたり、参加者たちがボソボソ壁打ちのように「いい…いい…」とつぶやきまくっているさまざまなコンテンツにふれることでその一端を知ることができるでしょう。
表紙の話しかしていませんが、僕は東京に疲れたアラサーOLがVRにふりまわされる話を書きました。紹介終わり。本当は初めての一次創作の上に1万字くらい書いたから読んでほしい…という我欲にまみれています。
文フリは11/24日曜日、スペース ネ-34でゲットだ!
今日はこの曲でお別れです。作詞作曲編曲演奏歌イラスト動画編集全部ひとりって何?
私的記録:7月18日と7月19日について
この記事は本来であれば先週の20日には更新されていて「誠くん!!新海誠クゥン!!!やってくれたねェ!!!」と、かつてないほどのクソキモオタムーヴで19日に公開された天気の子の感想を感情のままに述べる予定だった。
けれど既報のとおり、社会的にも可能ならば今からでも消し去りたい事態が7月18日に起きた。例えばそれがエンドレスエイトのそれのように、何か途方もない方法であっても避けられるやり方があるならそうしたいくらいの事態だった。人的・物的被害はさることながら、これまで発表された数々の京アニ作品が強制的に「悲劇の遺作」にさせられてしまったことがやりきれない。
純粋に人を楽しませるために提供された作品に影を落とされ、ファンがお気に入りの作品に持つポジティブな感情に、今回の悲劇が呪いのように紐づけられた。作品を、そしてその世界中のファンが瞬時に傷つけられた事実に、どう向きあえというのか。
さらに言うなら「もう純粋にアニメを楽しめないのではないか」という不安が事件の続報と共に刻々と増していった。多くのプロによって作られる二次元の世界があまりにも脆すぎるもののように感じられ、もうアニメの世界に没入できないのではと思われたからだ。
少しずつ報じられる実名入りの訃報に、かつて作品を通じて得た感動やスタッフへの畏敬の念が、じわじわと蝕まれていくのがわかった。
そうした感情を抱えながら翌日の19日の夜、わく@wakさんと新宿で会った。天気の子の鑑賞のためだ。上映まで1時間ほどあったので、台湾料理屋に少し居座ることにした。新宿紀伊国屋は天気の子のキャンペーンを大々的に行っていて、行き交う人々も含め新宿という街は昨日の事件とは関係なく平常通り稼働しているよう見えた。
わくさんは一見には入りづらそうな中華屋なんかに入り込むのがうまい。今回入った台湾料理屋も決してジャパナイズされておらず、飾り気のない白地の皿にドンと置かれた八角の効いた餅のような料理やちまきが出てくるような店で、食感から台湾の片隅に来たような感覚になれる。ちなみに僕は台湾に行ったことがないし、わくさんは飛行機に乗れないので本物の台湾がどんなのかを知る機会はしばらくなさそうだ。
わくさんとは昨日の話は一切しなかった。話していたら、期待に期待してきた三年ぶりの新海誠作品を、少なくとも僕は本当に楽しめなくなってしまう気がしたからだ。僕らはどこか不安を脳内で増大しがちなので、鑑賞中に模倣犯が飛び込んできたら、などとしても仕方ない心配に心が疲れてしまう気もした。
どんな傑作も理不尽な暴力の前には無力、そう思いたくなかった。
そして鑑賞を終えた22時過ぎ、僕らは純粋な興奮の中にいた。
天気の子については既に多くの方が述べている感想にほぼ同意している。私は既に体組織のほとんどを新海誠によってコンバートされているため、予告を見た時点で「ははあ、今回は雲の向こう、約束の場所以来のガッチガチのセカイ系やな」と細胞レベルで理解していた。けれどその予感を以てすら本作の奔流を受け止めきれず、二時間の鑑賞の後、洗礼のように体のあちこちにさらに深く新海イズムがねじこまれることになった。
小栗旬の藤原啓治にも劣らないくたびれた中年の演技、今作ダントツで抜群の演技を見せつけた吉柳咲良、前作より柔軟性を感じるRADWIMPSの劇伴、行動原理が破たんしているにも関わらず力技でまとめきったストーリー…語るべきことはたくさんあった。わくさんと帰路についた金曜の夜の歌舞伎町の中で、間違いなく我々は天気の子で描かれた新宿の中にいた。
そして何よりアニメーションをめぐる未曾有の悲劇から感じた不安や悲哀は、まったく無関係な二時間のアニメーションによって、完全とは言わずとも大きく払拭されていた。
現金なやつと思われるかもしれない。実際それで立ち直れる程度だったのだと言われても仕方ないのかもしれない。しかしアニメーションが私を少しでも勇気づけてくれた事実は頑として変わらない。
アニメーションの語源には「命を吹き込む」という意味がある。
本来であれば、制作者が連続した静止画にさまざまな効果や音声をつけて動いているモノに仕上げる行為を指しているだろう。しかしアニメーションそのものが視聴者である私たちに、多かれ少なかれ命を吹き込んでくれているからこそ、こうして絶望したり、また励まされている。
アニメーションというエンターテインメントのメディアを通して、その向こうにいる制作者や鑑賞者たちがよりよく生きようとする関係をこの2日間で強く感じた。
呪いたくなるような事実や人間が人生を阻むが、私達の今後の人生までそれらに必要以上にひきずられ、呪われることがないように気をつけなければならない。
幸いにもこうしてブログが書ける程度には健康であるうちは、この日常を維持して、心打がしてくれた作品について細々語るのが、遠すぎる当事者である自分にできることであるように思う。
「老後2000万問題」の資料を淡々と辿ってみたらタモリに行き着いてしまった
つい先程まで5100万であったはずの老後資金が突然倍になりました。
更に読み進めると、43ページでは1億5000万必要になりました。
特に脚注されている「月額32万」はどう計算されているか僕には不明でした。
想定月額については既に同資料の21ページで図示されていますが、なぜ32万という額に至ったかまったく読み取れません。
僕がTSUTAYAに行かなくなった日
その日が来てしまった。
先日、TSUTAYAでのCDレンタルをやめることにした。
高校入りたてくらいからほぼ毎週続けていた習慣だが、十数年目にして終わらせることにした。
理由は明確で、「借りたいものが置いてない」から。
変化を感じてきたのは数年前からだった。
「新作旧作5枚で1000円」のサービスがスタートし、その後1年ほどで4枚1000円にグレードダウンした。
それでも毎週「この人たち最近よく名前見るなあ」といった具合で気になる新譜2-3枚を借り、初めて聞くアーティストの旧譜で埋めるとちょうどいい塩梅だった。
しかしここ1-2年で、通っている店舗の新譜入荷が鈍くなってきた。レジが完全にセルフレジに移行したのもこの頃だ。
宇多田ヒカルや米津玄師などロングセラー作品は、ランキング20位くらいまでの作品と共に什器の棚1列いっぱいに作品が置かれている。
しかしそれ以外の、入荷が少ないアーティストの新譜コーナーは什器の半分程度にまとめられ、元々アーティスト数も少ないヤ行やワ行は空のことが多くなった。
J-POPの他にロキノン系、いわゆる邦ロック系を蒐集している僕にとってこれは致命的だった。この手のアーティストは先述したロングセラーアーティストに比べれば1-2枚新譜が入荷してあればいい方で、新譜があれば掘り出し物のようにありがたくレンタルしていた。
新譜入荷の縮小はこのワクワク感が潰えることを意味している。
「今週は何が置いてあるかな」という期待が満たされなくなっていくのは、年々人気の減っていく地方のテーマパークを見ているような気分だった。
(それでもアニソンは比較的好調なようで、別の棚にそこそこ新譜が揃っている)
もっぱら利用している店舗は都内JRの駅ナカにある。
利用者が比較的多様と思われる東京ですら、確実に借り手がいる作品しか置かれなくなってきているようだ。
新譜で借りたいものが減り、そのうち手ぶらで帰ることも多くなった。
なんとか埋め合わせに旧譜を借りようにも、そもそも新譜が入ってこないので旧譜の棚も新陳代謝が止まっている。
苦し紛れに数合わせで有名なベスト盤なんかも借りていたが、先週「こんな借り方してても意味がない」と気付いてしまった。枚数合わせで借りるなど虚無がすぎる。
その瞬間、自分の中で長らく息づいたCDレンタルという習慣が息絶えたのがわかった。
------
サンプル数n=1の印象論だろう、と反論される方もいるだろう。
しかし現実としてCDレンタルの市場規模は縮小傾向にある。
以下の資料の通り、店舗数、レンタル市場額ともに前年割れが長年続いている。
https://www.riaj.or.jp/f/pdf/issue/industry/RIAJ2018.pdf
在庫切れの不便や返却の手間を考えれば、サブスクやストリーミングを利用するのが断然便利だ。
市場原理としてレンタル事業が縮小するのは自明とも言える。
------
結局、昨日先延ばしにしていたapple musicを導入することにした。
同時にiTunes matchで手持ちの音源をすべてアップロードして、これで自前の音源だけでも万単位の曲がいつでも聞けるようになった。
サブスクのサービス導入をためらっていたのは、音源を所有できない点で気持ちの折り合いがつかなかったからだ。
くだんの電気グルーヴの音源配信停止のように、サブスクではプラットフォームの意向次第でユーザーのライブラリは改変されてしまう。
何かを集めるタイプの趣味がある人ならわかると思うが、どんな理由であれ自身のコレクションに知らぬ間に手を加えられて心穏やかな人はいないだろう。
レンタルでも手元に音源を残しておくのは、僕にとって壁一面の本棚を年々少しずつ増築していくような楽しみだった。
そしてapple musicはさらに複雑な感情をもたらした。
予想以上に、あまりに便利だったからだ。
新譜の公開も早く、サジェストされる作品も的確だ。
そしてこれまで取りこぼしていた音源、特にカップリング曲なども網羅されている。気がつけば一晩で100曲近くダウンロードしていた。これでは「4枚1000円」など話にならない。
未知の音源の入手量もスピードも、月額1000円程で劇的に進化してしまった。
そしてこの進化と引き換えに、僕は音源の蒐集という習慣を完全に失うことにも気づいている。
勝手にやめておいてなんだと思われるかもしれないが、ライフワークと化した習慣がなくなることに寂しさを覚えるのはおかしいことではないだろう。
そして最も恐ろしいことは、手元に音源が増えないことで、自分の思い出の定着も弱まりそうなことだ。
ライブラリを眺めると、それぞれの音源を手に入れた頃の思い出が想起される。
今よりずっと大量に音楽を聞いていた大学の頃、新卒で縁もゆかりもない新潟に飛ばされて営業車の中でひたすら聞きまくった暗黒時代…。
サブスクで音楽を聴くようになれば、ライブラリの更新が頻繁に行われることになる。
一生かけても網羅できないほど音源が提供されるサブスクというサービスの中で、常に手持ちのライブラリは更新され続け、時間軸と共に残存した視聴履歴のレイヤーというものがなくなる。
常に最新のものしかないなら、参照する過去もないということだ。
地道に積み重ね続けたライブラリによって保たれていた思い出が、これ以上積み重ねられることがなくなる。
サブスクの導入は、それくらい僕にインパクトを与える出来事だった。
--------
今ライブラリを確認したところ、所有している音源は重複も含め16000曲ほどあった。
仮に15年で集めた音源だとしたら、年およそ1000曲ほど揃えてきたことになる。
もちろんもっとハイペースでたくさんの音楽を聞いてる人はたくさんいるだろうが、僕にとっては珍しく数字で残っているライフログだ。
おそらくここから、このログは一気に蓄積ペースが鈍くなるだろう。
それは同時に思い出を語ってくれる音源も少なくっていくということだ。
それでも結局これからも僕はTSUTAYAに通い、これまで通り新譜のコーナーへ向かい、まだ手に入れてない音源を発見するだろう。
ただこれまでと違うのは、きっと僕はレンタルせずにapple musicでその音源を検索し、ダウンロードしてしまうということ。
残念ながら、今の自分にこれを否定する言葉も理由も持ち合わせていない。
------
俺達は伝えなければならない。俺達の愚かで、切ない歴史を。
それらを伝えるためにデジタルという魔法がある。…
メタルギアソリッド2で小島秀夫はこんなセリフをスネークに言わせている。
デジタルは有限の人間の活動に永遠性を付与してくれる。しかし一度失われた時の不可逆性も絶大だ。
0か1か、まさにデジタルそのものの特性に、僕は振り回されはじめている気がする。
レンタルのセンチメンタル
ストレスゼロならハッピー
アタマのパイプカットならOKthe pillows/インスタントミュージック
斯くして「響け!ユーフォニアム」は黄前久美子の繰り返しの物語となった
「三年生にとって最後のコンクール」
この言葉によってもたらされる苦悩は強くこびりついて離れない。
「劇場版 響け!ユーフォニアム ~誓いのフィナーレ~」が公開された。
完全新作となる本作は上下巻の原作から昨年公開された「リズと青い鳥」にあたる部分を除いたストーリーで、相当数のボリュームがある原作から「リズ」を省いた形で展開している。
次作以降の展開を考慮してか、今後の中心人物になると見られる新入生の久石奏を中心に据え、「リズ」で中心人物であった傘木希美や鎧塚みぞれに至ってはほとんど出番がない…ないのだが、それだけに終盤の活躍が輝いている。
他にもカットされた部分では合宿でのなかよし川の夫婦ぶりや黄前久美子の家政婦は見たスキルなどは健在なので、是非とも未読の方は原作で補完いただきたい。
響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編 (宝島社文庫)
- 作者: 武田綾乃
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2017/08/26
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (9件) を見る
久石奏以外の新入生の描写も簡素化しており、特に久石奏と剣崎梨々花との強烈な絡みがほぼ完全にカットされていたところなどから、徹底的に本筋を進めるストイックさが感じられた。
しかしながらそのようにフィーチャーされた新入生を差し押さえて、やはり本作の主人公は黄前久美子だった。
失言王と呼ばれ、同級生の胸ばかり見ていた高校一年生は、似たような道を辿りつつあった久石奏を導く二年生になった。
この久石奏への救済は、真にもがいた経験のある者しか示すことはできない。
****
部活動は繰り返しの世界だ。
「最後のコンクール」だなんだと言っても、コンクール自体は毎年訪れる。部活が解散でもしない限り、おおよそコンクールは毎年開催され、部はコンクールに参加するだろう。
このような淡々としたシステマチックなスキームの上に、部活動の青春は成り立っている。
中学までの黄前久美子は、部活動のシステムに乗っているだけだった。乗っているだけだったから、ダメ金で泣くこともなかった。
「頑張るって、なんですか?」
中盤で放たれる久石奏の心情を、当時の黄前久美子では否定できなかっただろう。
けれど北宇治高校に入学し、偶々その時入部していた同級生や先輩たちと部活に参加するうちに、彼女は変わった。
滝先生が年度初めに提示する「自主性の選択」もまた、繰り返しのサイクルにどう臨むかを部員に選択させるターニングポイントと言える。
部活動の無機質な繰り返しに飛び込みもがくのは、今この瞬間にしかできない。
その愚かさにも似た姿こそが青春の一端であると強く感じる。
「私は頑張ればなにかがあるって信じてる!それは絶対無駄じゃない」
****
部活動の繰り返しは、SF的な繰り返しではない。
ハルヒやまどマギのような、永遠とも言える繰り返しの果てに救いを求めることは出来ない。
大概、部活動の繰り返しは3年で終わる。
どちらの繰り返しがより尊いものであるかなどと比較できるものではない。
しかし少なくとも限りある繰り返しこそが、部活動の青春エモをブーストさせていることに疑いはないだろう。
そして本作で最も注目すべき点は、冒頭からしばし挿入されるとある"演出"だ。
この"演出"で描かれる部員たちはいつまでもそこに留まるが、どんなに願っても実際の本人たちの意志とは無関係に離れていってしまう。
この"演出"は部活動に生きる部員たちの"今"が、限りあるものであることを強く印象づける。
おそらく劇中の部員たちはそうしたことを考える暇もなくただただ忙しく、気がつくと新入生は上級生となっていて、卒業生になって、いずれ学生でもなくなってしまう。
そんな時の流れを強烈かつ一切の飾り気なく、観客はその"演出"によって見せつけられ、自己投影をした時、その"演出"の中にかつての自分を見てしまう。
この瞬間、ある者は自らを省みて滂沱し、またある者は場合によっては青春ゾンビと成り果てるだろう。
この"演出"に見られる意図は既にけいおん!で見られるのだが(なのでこの演出は勝手に山田尚子アイデアだと思っている)、「響け!」という実直な部活動アニメでは格段のリアリティを以て鑑賞者にぶつかってくる。
原作にもないこの"演出"は、まさに映像ならではのものであり、その意外性も相まって相当の破壊力となっている。これから見られる予定の方におかれましては心してかかっていただきたい。
黄前久美子の人生は決して特別なものではない。
なんとなくのきっかけで楽器を始め、流れで吹奏楽部に入り、仲間や恋人ができて…。
彗星が落ちることも異世界に転生することもない、観客と同じ道理の世界で生きている。
それでも、本作で語られる黄前久美子の生き様は特別以外の何者でもないことを、我々はまったく否定できない。
それを最も理解しているのは、本当に繰り返しのない今を生きる我々観客なのだから。
追い求めた影の光も 消え去り今はただ
君の耳と鼻の形が愛しい
忘れないで 二人重ねた日々は
この世に生きた意味を 超えていたことを
スピッツ/君が思い出になる前に
そしてオタクは「気持ち悪い」から目覚める―SSSS.GRIDMANにエヴァを添えて
何かが変わる気がした 何も変わらぬ朝に
いつもより少し良い目覚めだった
―changes/Base Ball Bear
「気持ち悪い」
1997年、多くのオタクがこの呪いにかかった。
『劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』で終劇に告げられるこのセリフは、壮絶な運命を経てもなお、他者と向き合うことを決めた碇シンジへ向けられたものである。
本作において視聴者がもつ感情は様々だが、概ね「他者と向き合うこととは何か」を描写している点は共通認識であると思う。
個人的に本作を鑑賞したのは10年ほど前で、その頃は学生生活に病んでいたので、「どうして俺にミサトさんはいないんだろう…」と真剣に悩みながら毎晩夜明けまで劇場版を鑑賞する生活を1カ月ほど続け、前期の午前中の授業は全て落とした。
それでも今までなんとか生きてこれているし、ミサトさんにもそこまで渇望しなくなった。一方で当時苦手だったアスカが年々かわいく見えてきており、時間の経過を強く感じている。
しかながら「他者がいたって大丈夫じゃないか」というテーマが、想像の斜め上どころじゃない映像表現によってあまりに暴力的に受け取られてしまったことで、本作に"やられた"人たちは困惑と怒りのような感情を持つことになる。
さながら本作そのものが、鑑賞者にとってもゲンドウのような存在になってしまった。
本作によって鑑賞者に生まれた負の感情は、自らを縛る呪いとなっていったことと思う。
さらに15年後、新劇場版を経て上映された『巨神兵 東京に現る』では林原めぐみのナレーションによって「逃げろ、逃げろ」と語られる。
碇シンジの強がりにも似た「逃げちゃダメだ」とはなんだったのだろう。
いやそもそも本作から十数年も経っているのだから整合性を求めること自体が無為なのだが。
逃げちゃダメなのか。
逃げるべきなのか。
そもそも我々は何から逃げているのか?
「楽しい事見つけて、そればかりやってて、何が悪いんだよ!」
その答えを、SSSS.GRIDMANは示してくれたことと思う。
---
最終話でのSSSS.GRIDMANは以下のような構造になっている。
1,ラストシーンの女の子(実写パート)
2,女の子が生み出した新条アカネ(=神)の生み出した世界(本作のアニメパート)
実写パートの登場により、本作のラストは視聴者とどこか地続きの現実のように感じられる。
しかしながら女の子が登場する実写パートは、飽くまでアニメパート同様に製作者によって作られた虚構であり、本質的にはアニメパートと同じ虚構である。
したがって本作の構造はこのようになっている。
A層,製作者・視聴者(現実)
---虚構の壁---
B層,ラストシーンの女の子(実写パート)
C層,アニメパート
ここで重要なのはB層の実写パートを「A層の視聴者と同じ現実の延長」と見てしまうと本作の印象が大きく変わってしまう点だ。
B層がA層と地続きと捉えるならば、新条アカネはアニメの世界から現実へと脱した存在となる。
新条アカネ≒視聴者のオタクという見方からすれば「新条アカネは結局自らの作り上げた虚構では生きていかれず、結局現実へと引き戻される存在であった」という認識になるだろう。
これではオタクの真の救済にはならない。
現実に引き戻されてしまってアニメの世界に戻れないなら、結局本作は「現実に向き合え」という、ある種暴力的なメッセージを放ったエヴァ劇場版となんら変わりないものになってしまう。
一方B層が飽くまでC層の延長であり、B層もまた虚構であると捉えるとどうたろうか。
虚構(C層)から帰ってきた女の子はきっと彼女の現実(B層)で、生きていくだろう。
そして我々もまた、虚構から(B+C層)抜け出した世界(A層)で生きていくことになる。
女の子は居心地の良かった虚構から帰ってきた。
宝多六花は「私はアカネと一緒にいたい。どうかこの願いが、ずっと叶いませんように」と願った。その本心とは裏腹に。
きっと女の子は、新条アカネとして元いた世界に戻ることはできないだろう。
けれどあの世界で手に入れた「救われた気持ち」までは虚構ではないだろう。
その証拠としてパスケースだけが残った。
それはまさに、望んだ世界が虚構だったとしても、そこから得た希望を以て生きようとする現実の人間の姿だ。
虚構、言い換えればコンテンツはきっと時と共に離れていく。
けれどきっとそこから得られた気持ちがオタクを救ってくれるかもしれない可能性は、確実にそこにある。
理想の世界は虚構かもしれない。
けれど虚構の世界で得られた感情は、ただ自分自身だけが信じられる現実そのものではないか、そう思うわけです。
ならばその感情を以て現実を生きることは、決して虚構に背を向けることとは異なると思うのです。
奇しくも本作放送終了後、1月クールでトクサツガガガのドラマが放送された。
特撮によって生まれた友情やちょっとした勇気を描く本作にもまた、SSSS.GRIDMANの描くそれと同質性を感じずにはいられない。
新条アカネは救われた、君はどうか?
そういう問いと可能性をSSSS.GRIDMANは示してくれたのではないだろうか。
祈るだけじゃ助からないってこと そんなの知ってる
呪うだけじや救われないってこと それもわかってる
////
笑い者にされてた 僕の世界で 君のことをずっと待ってる
いないことにされてた 僕の呪いが
君の傷を癒やす お呪いになりますように―魔王/Base Ball Bear
「スクールガール・オタクコンプレックス」という新条アカネの生み出した怪獣に、僕は…。
SSSS.GRIDMANという名の怪獣がインターネットを蹂躙するようになって、はや数ヶ月が経とうとしている。
その根幹には上田麗奈さんの天才的ないじらしい演技が肝であるわけで、曇りのない透明な声に時折乗ってくる苛立ちや嫉妬の演技とのコントラストに毎話息が止まる思いであります。
皆さんお元気ですか。私は毎週ギリギリです。
オタクはすぐ悪い上田麗奈に恋をする… pic.twitter.com/mbhAVSJnEz
— サカウヱ (@sakasakaykhm) October 14, 2018
アアッ、アカネちゃん…アカネ…大丈夫、、夢だからね、、、、夢は覚めなくていいんだよ…一緒に… pic.twitter.com/yWYRSaKPKk
— サカウヱ (@sakasakaykhm) December 2, 2018
そんな中放映された最新話9話では一気に物語が核心へと進み、特にこれまでつかみどころのなかった新条アカネの心象がかなり深いところまで描写された。
直近までの物語では、新条アカネはすべてを掌握した存在のような尊大な性格を見せていたわけだが、実際、真に求めているものは友達やつながりといった普遍的なもので、自身の強大な能力をもってすらそれを手に入れられずじまいでいる様子が描かれた。
そこから見えてくる新条アカネの姿は、孤独で、ステレオタイプ的なぼっちと言っても過言ではない、とても小さなものだった。
このことは新条アカネに少なからず関心を持ってきたオタクにとって、その心をかき乱すのに余り余って重要な事実であった。
新条アカネとはスクールカースト最上位の女であった。
新条アカネとは特撮オタクであり、フィギュアとふたばを愛する、片付けができないだらしない女であった。
新条アカネとはキレるとモニターを足蹴にする女であった。
新条アカネとは自分の役に立たない人間はモノとも思わない女であった。
これまで描かれてきた人物像から突然浮き彫りになったその本質は、孤独としか言いようがないものである。
リア充でオタクの美少女、まさにオタクたちが求め続けてきた女は、孤独に呪われ、縛られていた。
僕はこれをスクールガール・オタクコンプレックスと呼ぶことにした。
これは二次元コンテンツで一般的となった「ギャルは実はいい奴」論に近い。同じクラスにいたあのクラスの女子にも、自分の存在をみてほしい。そんな願望。
「キスとか、しないんすか?」
「マミ美は、こうしないとあふれちゃうんスよ」
それはFLCLの1話でも見られた、タッくんとマミ美の曖昧な関係にも似ている。
本当ならタッくんの兄を求めるべきマミ美は、手頃な距離のタッくんで自らをごまかす。
言葉では拒否するタッくんも、求められることにまんざらでもない。
新条アカネは悪いやつである。気に入らない人間はなんの感慨もなく抹消する。
だが心の弱さに裏付けされた悪い女に、オタクは弱い。
新条アカネは欲しいものを見つけるために、破壊するという行為を選択しているだけなのだ。
だがその心は全く満たされることはないだろう。
教室の窓越しに ぼんやりと 空に問う
— サカウヱ (@sakasakaykhm) December 2, 2018
なんのため ボクは生きてるの?
分かんないよ… pic.twitter.com/tM9ObA1CC5
万能であり、孤独であり、退屈。
本作での彼女の処遇は、既にOPによって示されていると考えている。
「君を退屈から救いに来たんだ」って歌詞に合わせてこのカットでオタク救済完了でしょ… pic.twitter.com/SDdDe24bdQ
— サカウヱ (@sakasakaykhm) October 15, 2018
主題歌で特に印象的な歌詞である「君を"退屈"から救いに来たんだ!」というフレーズが、グリッドマン(同盟)が新条アカネを救済することを示していることは明白であるが、問題はその「救われ方」がどうなるかである。
原作である電光超人グリッドマンでは、怪獣側に藤堂武史という人物が出てくる。彼もカーンデジファーという魔王に操られ、共同して怪獣を生み出していた。
終盤、藤堂武史は主人公たちのはたらきかけによって改心し、自身の能力で魔王の打倒に助力した。
翻って新条アカネはどうだろうか。
宝多六花が中心となって、グリッドマン同盟が彼女を助けようと尽力するであろうことが9話終盤で示されている。
だが今のままでは、助けられた先に本当の意味での彼女の救いはない。
なぜならもし本当に登場人物を含めたすべてのモノ・人が新条アカネによって創られたものだとしたら、彼女を助けようとする六花たちの思いすら新条アカネを基とした作り物だったとことになる。
なんでも都合よく作れる世界なのに、本当に彼女が求めているものはその世界から一向に与えられることはない。
9話時点で、夢の中ですら思い通りにいかない新条アカネは相当に絶望している。
おそらく次に彼女が破壊するのは今の世界そのものか己自身か、あるいはその両方だろう。
「新条アカネの喪失」はすでにOP/EDで暗示されているのだから、なんら不思議なことではない。
--------------------
「私はずっと夢を見ていたいの」
グリッドマン同盟は彼女を助けるだろう。
その想いが新条アカネにとって、ただの作り物にしか見えないか、あるいは自らの創造を超えた何かとして捉えられるか。
本作の結末はすべてそこに掛かっているだろう。
グリッドマン、そしてグリッドマン同盟が、我々視聴者のオタクも救ってくれることを願ってやまない。なぜなら新条アカネの救済こそが、新条アカネに心奪われたオタクを救うただ一つの方法なのだから。