1k≒innocence

散文だったり、アニメ分析だったり。日常が切り取られていく姿は夏のよう。

私的記録:7月18日と7月19日について

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この記事は本来であれば先週の20日には更新されていて「誠くん!!新海誠クゥン!!!やってくれたねェ!!!」と、かつてないほどのクソキモオタムーヴで19日に公開された天気の子の感想を感情のままに述べる予定だった。

 

けれど既報のとおり、社会的にも可能ならば今からでも消し去りたい事態が7月18日に起きた。例えばそれがエンドレスエイトのそれのように、何か途方もない方法であっても避けられるやり方があるならそうしたいくらいの事態だった。人的・物的被害はさることながら、これまで発表された数々の京アニ作品が強制的に「悲劇の遺作」にさせられてしまったことがやりきれない。

純粋に人を楽しませるために提供された作品に影を落とされ、ファンがお気に入りの作品に持つポジティブな感情に、今回の悲劇が呪いのように紐づけられた。作品を、そしてその世界中のファンが瞬時に傷つけられた事実に、どう向きあえというのか。

 

さらに言うなら「もう純粋にアニメを楽しめないのではないか」という不安が事件の続報と共に刻々と増していった。多くのプロによって作られる二次元の世界があまりにも脆すぎるもののように感じられ、もうアニメの世界に没入できないのではと思われたからだ。
少しずつ報じられる実名入りの訃報に、かつて作品を通じて得た感動やスタッフへの畏敬の念が、じわじわと蝕まれていくのがわかった。

 

 

そうした感情を抱えながら翌日の19日の夜、わく@wakさんと新宿で会った。天気の子の鑑賞のためだ。上映まで1時間ほどあったので、台湾料理屋に少し居座ることにした。新宿紀伊国屋は天気の子のキャンペーンを大々的に行っていて、行き交う人々も含め新宿という街は昨日の事件とは関係なく平常通り稼働しているよう見えた。

わくさんは一見には入りづらそうな中華屋なんかに入り込むのがうまい。今回入った台湾料理屋も決してジャパナイズされておらず、飾り気のない白地の皿にドンと置かれた八角の効いた餅のような料理やちまきが出てくるような店で、食感から台湾の片隅に来たような感覚になれる。ちなみに僕は台湾に行ったことがないし、わくさんは飛行機に乗れないので本物の台湾がどんなのかを知る機会はしばらくなさそうだ。

わくさんとは昨日の話は一切しなかった。話していたら、期待に期待してきた三年ぶりの新海誠作品を、少なくとも僕は本当に楽しめなくなってしまう気がしたからだ。僕らはどこか不安を脳内で増大しがちなので、鑑賞中に模倣犯が飛び込んできたら、などとしても仕方ない心配に心が疲れてしまう気もした。
どんな傑作も理不尽な暴力の前には無力、そう思いたくなかった。

 

そして鑑賞を終えた22時過ぎ、僕らは純粋な興奮の中にいた。


天気の子については既に多くの方が述べている感想にほぼ同意している。私は既に体組織のほとんどを新海誠によってコンバートされているため、予告を見た時点で「ははあ、今回は雲の向こう、約束の場所以来のガッチガチのセカイ系やな」と細胞レベルで理解していた。けれどその予感を以てすら本作の奔流を受け止めきれず、二時間の鑑賞の後、洗礼のように体のあちこちにさらに深く新海イズムがねじこまれることになった。
小栗旬藤原啓治にも劣らないくたびれた中年の演技、今作ダントツで抜群の演技を見せつけた吉柳咲良、前作より柔軟性を感じるRADWIMPSの劇伴、行動原理が破たんしているにも関わらず力技でまとめきったストーリー…語るべきことはたくさんあった。わくさんと帰路についた金曜の夜の歌舞伎町の中で、間違いなく我々は天気の子で描かれた新宿の中にいた。

 

そして何よりアニメーションをめぐる未曾有の悲劇から感じた不安や悲哀は、まったく無関係な二時間のアニメーションによって、完全とは言わずとも大きく払拭されていた。

現金なやつと思われるかもしれない。実際それで立ち直れる程度だったのだと言われても仕方ないのかもしれない。しかしアニメーションが私を少しでも勇気づけてくれた事実は頑として変わらない。

 

アニメーションの語源には「命を吹き込む」という意味がある。

本来であれば、制作者が連続した静止画にさまざまな効果や音声をつけて動いているモノに仕上げる行為を指しているだろう。しかしアニメーションそのものが視聴者である私たちに、多かれ少なかれ命を吹き込んでくれているからこそ、こうして絶望したり、また励まされている。

アニメーションというエンターテインメントのメディアを通して、その向こうにいる制作者や鑑賞者たちがよりよく生きようとする関係をこの2日間で強く感じた。

 

呪いたくなるような事実や人間が人生を阻むが、私達の今後の人生までそれらに必要以上にひきずられ、呪われることがないように気をつけなければならない。

幸いにもこうしてブログが書ける程度には健康であるうちは、この日常を維持して、心打がしてくれた作品について細々語るのが、遠すぎる当事者である自分にできることであるように思う。