『心が叫びたがってるんだ。』を楽しんだ方にお勧めする5作品を心から叫びたいんだ。
宗教的な理由で『心が叫びたがってるんだ。』観てきました。
人生で初めて映画館に2回足を運んでしまいました…。
(この表情、これ、これですよ…)
開始20秒で「お、岡田麿里~!!」という感情に支配されて発狂しそうになったのですが、直後「坂上くんってキャラクターがGalileo Galileiのサークルゲーム聴きながら通学してる!!」と勝手なシンクロニシティを感じてニッコリしてしまい、結局2時間最後まで楽しんでしまいました。
特にミト(クラムボン)の劇伴が本当に良かった…。
『とらドラ!』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』と長井龍雪(監督)☓岡田麿里(脚本)☓田中将賀(キャラデザ) トリオの仕事も本作で3作目に入り、かなり手馴れてきた雰囲気を感じました。この3人でやる意味がよく出てきたと思います。
そこで『ここさけ』に至るにあたり、今こそ改めてメルクマールとなる主要な作品を振り返り、主に長井・岡田を中心とした作品性をもう少し具体化してみたいと思います。
要は「ここさけ楽しんだならこれも観るといいですよ!!!!」というオタク特有のお節介が今回のテーマです。今回は『とらドラ!』と『あの花』については割愛しました。
(タイトル横に参加している『ここさけ』主要スタッフを記載しています。敬称略。)
■『あの夏で待ってる』(長井・田中)
「どうしようもある!好きだって言えばいい!」
一生ものの想いを、一瞬の夏に。
長野県小諸市、ある夏に飛来してきた宇宙人。そこから4人の高校生たちの青春が動き出します。
キャラクターデザインのおかげもあってか、今回紹介する作品の中ではもっとも『ここさけ』に近い画面になっています。
過去から続く複雑な想いの交錯、軽快なテンポの会話劇、愛嬌のあるキャラクターたちが素晴らしい美術背景に映える名作。終始主人公が回し続ける8mmフィルムのハンディカメラが撮影し続けた映像には、最終話でノスタルジア以上の何かを解放します。
「過去と今に縛られ、どうしようもないと思っていた自分が、変わっていく」という点において、『ここさけ』にも通じるテーマか見てとれます。
1クールのオリジナル作品ながら視聴後に得られる爽やかは何者にも代えがたく、とても首尾よく完結した名作です。
2015年11月現在、バンダイチャンネルで見放題だ!
■『とある科学の超電磁砲』シリーズ(長井)
「能力があってもなくても、佐天さんは佐天さんです!!
私の親友なんだから!だから、だから…そんな悲しいこと、言わないで…!」
人気作『とある魔術の禁書目録』のスピンオフ作品。
『禁書目録』に比べて日常回が多く、登場人物や設定もわかりやすいので『禁書目録』を見てなくも大丈夫です。
「無能」にはどうしようもない悩みがあり、また「最強」にもどうしようもない問題がたちはだかる。その解法はすべて「仲間」が教えてくれる。
1期最終話タイトル”Dear My Friends”に、本作のテーマが集約されているとしても過言ではないでしょう。
長井監督の「仲間」への考え方が強く読み取れる作品です。
前半の初春にすごく長井イズムを感じます。
(佐天さんが倒れるところ以降は若干ネタバレ)
■『花咲くいろは』(岡田)
「私、輝きたいんです!」
『SHIROBAKO』の原点ともなった、働く女の子シリーズ第一弾。
母と娘、孫と子、先輩と後輩、母親がわりの長女…さまざまな立場の「女」を描いた本作もまた、岡田麿里らしさに満ちた作品です。
『ここさけ』でもそうですが、『母親は女である』ことを真正面から描くスタンスは、岡田麿里の世界観の特徴といえるでしょう。
舞台は金沢の温泉郷である一方、時折「東京」が描かれることによりけっしてこの物語が一地方の閉じた世界の話ではなく、誰にでも身近に起こりうる可能性を示しているともいえます。
リアリスティックに基づいた作品ながら、ちょっと恥ずかしいセリフが出てくるところがアクセントになっています。
完全新作の劇場版含め、こちらもバンダイチャンネルで見放題。
■『凪のあすから』(岡田・2期OP映像のみ長井)
「私ね、変わらなければいいと思ってたし、変わりたくないよ。それって無理かもしれない。難しいかもしれない。でも、それでも、私、変わりたくない。ずっと一緒がいい」
ファンタジー、ボーイミーツガール、しきたり、呪い。
『ここさけ』はしきたりと呪いの物語でした。
成瀬順の呪い、ふれ交という形骸化した行事、「野球部エースとチア部部長は付き合う」という引き継がれるしきたり…。
『凪あす』もまた、そこに潜む土地や血縁に縛られる呪われた人たちを描く作品であり、息を呑む美術背景の美しさがそれを生々しく浮き彫りにしています。
地上の人と海底の人という不思議な対立構造に見える物語は、日本的な「地方と都市」にも近い設定であり、前述した『花咲くいろは』にも同様の関係性を見出すことが可能でした。
岡田麿里はこうした制限や枷を与えた上でキャラクターを動かすのがお好みみたいです。その点ではキャラクターの過去に因縁を置く長井監督にも通ずるものがあるといえます。
■『true tears』(岡田)
「わたし、涙あげちゃったから…」
3人のまったくタイプの違う女子高生が登場する本作。
放送後数年に亘って地獄とも言うべき「真のヒロインは誰だ論争」が繰り広げられましたが、その後の顛末は誰も知りません。(どうやらすべて各々の心の中に回帰していった様子)
それだけに『true tears』では強烈なエゴイズムが遠慮なく描かれており、今見返しても作品の鮮烈さは霞むことはありません。
この『true tears』のエレメントを、私は『ここさけ』では仁藤菜月の以下のやりとりからひしひしと感じておりました。
(以下作中要旨)
楽曲の打ち合わせのために坂上の自宅に向かう成瀬と仁藤。
バスを降りるとまっすぐ坂上宅へ向かう成瀬。「坂上くんの家、知ってるの?」
「(うなづく)『曲をピアノで弾いてくれたんです』」
「えっ、坂上くん、ピアノ弾いたんだ…」
(ここまで要旨)
ここを『true tears』を以て因数分解すると以下のような解が生まれてしまいます。
「へぇ成瀬さんは坂上くんの家に行ったんだ私も行ったことないのにしかもピアノも弾いてくれたんだね私だってほとんど聞いたことないんだけどていうか本当に最近成瀬さんと仲良いよね私もう何年もまともに話できてないしアドレスだって知らないのに成瀬さんはいいよね結局坂上くんみたいなちょっとクラスで冴えないタイプの人って成瀬さんみたいなちょっと弱々しそうな不思議ちゃんが頑張ってるところに弱いんでしょ私だってそれくらいわかるけどこういう時になんで私もいるのに家で打ち合わせしようとか言いだしちゃうかなー私の気持ちとか本当にわかってくれてないんだねーでも立場的にも私がいい子にならないといけないよね委員長立場もつらいなーなんか坂上くんへの気持ちがどうとかじゃなくて成瀬さんにとられたくないって気持ちになってきちゃったなーー!!!!!」
普段いい子ほど何考えているかわかりませんね。
でもこうしたやりとりがあるからこそ、仁藤菜月がただの「いい子」に収まらず、ちゃんと4人の中でひとつの物語を担うべき存在となっているのではないでしょうか。
だいぶ前から『true tears』は見放題入ったままですね。
■おわりに
自分で書いていて自分の趣味がこの三人に起因した部分が非常に多いことに驚きました。
長井・岡田ペアはついにガンダムシリーズ最新作『鉄血のオルフェンズ』でもタッグを組み、その注目度は今最も高まりを見せているようです。
紹介した中から素敵な作品に出会えたら幸いです。
曖昧なことも単純こともみんな花びらのよう
漂いながら空を廻っているだけ 振り返らないで
(サークルゲーム/Galileo Galilei)
みんな頑張って生きるんだなあ。
そして約束とともに、輪廻の外れへ―『シャーロット』と麻枝准の「これから」
『シャーロット』が最終話を迎えました。
展開としては前回の記事で期待していたとおりでした。
あらゆる能力を取り込みすぎて化物と化した=これまでの自分(記憶?)を失った中、朧気な「約束」を頼りになんとか帰ってきた乙坂を「約束、ちゃんと守ってくれたんすね」と迎える友利という最終話を期待してやまないわけですよ僕は #シャーロット
— サカウヱ(佳き倫理) (@sakasakaykhm) 2015, 9月 22
別にフォローする気とか全然ないけど、シャーロット最終話で見えた麻枝准の思想には本当に賛同したい その点は間違いなく素晴らしかった。 #シャーロット
— サカウヱ(佳き倫理) (@sakasakaykhm) 2015, 9月 26
その後、最終話放送直後から
「キーポイントとか言ってた六話までやたら時間かかったしサラ・シェーンもどうなったかよくわからんしそもそも怪我したところで治癒させてタイムリープすりゃいいし設定も展開もガバガバすぎでしょ…」
というような感想が四方八方から聞こえてしました。僕もだいたい同意です。
同意なんですが…それで終わるには本当にもったいない気がしています。いくらPA贔屓、佐倉綾音贔屓であっても、どうしても「うーん、ちょっと駄作では…」と言い切れない気持ちがずっと残っていました。
それは一体何なのだろう、と既に秋アニメも始まる中ここ1週間考えてきました。
飽くまで個人の考えでありますが、本稿ではキャラクター、特に乙坂/友利の物語を通じて、特筆すべき本作の示唆を読み取ることに注力したいと思います。
・能力(=病気)の否定、そしてループからの脱出
最終話で、乙坂はふたつの大きな転換点を示します。
ひとつは「治癒能力の奪取」
多くがズルや悪行、果ては政治・軍事的に利用される「能力」ですが、乙坂も認めるように、能力者の少女が自分の村のために「善行」として能力を行使しているものもいました。しかしその能力すら乙坂は奪取します。
このまま彼女が能力を行使し続ければ救われる人はいるはず。
…ですが、いずれ彼女自身が周囲に利用されたり、成長して能力を喪失した時、世間からどんな謂われを投げかけられるか。
その人生を「幸せ」とは呼べないでしょう。
どんなに便利であろうと「能力は病気」であり、病気がもたらすものは不幸なのです。
そして乙坂は思いつきます。
「この能力で目を治せばタイムリープができる。そうしたら熊耳さんも助けられるかも…」
しかし乙坂はそうはしませんでした。
ここに見えるふたつめの要素は「ループからの脱出」です。
もし目を治癒させタイムリープしたとして、結局それは能力に頼って取り戻した世界です。能力から逃れられない、不幸を基に作られた世界です。
よって乙坂は熊耳を救うのではなく、病気のない世界を作り上げることを選びました。
(「病気のない世界を作る」と書くと乙坂の行動原理が割とまっとうなことがわかる。ちょっとセカイ系っぽい。そう考えると熊耳はセカイ系ヒロインの要素がある)
また『AIR』しかり『智代アフター』しかり、既存の麻枝准作品でも「ループ」という要素に主人公/ヒロインたちは直面してきました。
そんな中で主人公が「ループから脱出」し、その先にあるまったく新しい道を模索しようする姿勢こそが、『シャーロット』の醍醐味でないかと思うのです。
また12話終盤でZHIENDの音源が入ったプレイヤーを友利に返しています。
これが既に乙坂は音楽プレイヤー(=ループ、つまりタイムリープ)に頼らないことを暗示していたといえます。(その代わりに単語帳という「約束」を得た)
(↓このキャプションにもあるように、もともと荷物にプレイヤーは含まれていた)
では何故、そこまでして『シャーロット』では「ループから脱出」するのか。
それは友利との「約束」があるからに他なりません。
・約束の形と、これから。
『AIR』や『智代アフター』等で顕著ですが、麻枝准は多くの作品で主人公(男女問いません)とヒロインに「約束」を課します。
そしてその約束は凡そ果たされるのですが、代わりに死別、記憶喪失など大きな代償を与えます。そしてそれは『シャーロット』でも例外ではありません。
「帰ってくること、そして、恋人になること」という友利との「約束」を乙坂は果たしたものの、結果として友利や生徒会のメンバーと過ごしてきた思い出をすべて失ってしまいました。
しかしループを外れる=理を外れた乙坂を繋ぎ止めるたったひとつのものもまた「約束」でした。
もし乙坂がタイムリープでもしようものなら、友利との「約束」そのものを失くしてしまっていたのです。
輪廻の果てへ飛び降り、全くの化物になってしまっても、友利との「約束」だけが乙坂を乙坂たらしめたのです。
(この単語帳めっちゃ丈夫だな)
全くこれまでの経験のない「未来へ向かう」のですから、「ループから脱出」するのは怖いことです。
しかし「未来へ向かう」意義とは、ラストで友利がすべて語ってくれます。
「これからは、楽しいことだらけの人生にしていきましょう!」
友利奈緒が示す「これから」を、信じてみたいと思うわけです。
・友利奈緒という女
牛タン弁当を普通電車でモクモクと蒸気を上げながら食べてみたり、初対面の人間を一方的に足蹴にしたりとギャルゲー的な電波性を抱えた友利ですが、乙坂と同様に「我 他人を思う」キャラクターでありました。
「シシトウ~?」
「ZHIENDのPVを撮ることが夢なんすよ」
「人間やめたいんですか!?」
「(兄が快復したことの報せを受けて)…ありがとうございます」
「傷つくなあ…」
作中、友利が本音を表すシーンはすべて乙坂と共にありました。
乙坂の告白に対して「なして…?」と首を傾げていた友利ですが、あれは精一杯の照れ隠しだったのではと思います。
(あー惚れてますわ、これ。ああーかわいい。)
しかし友利がいつ乙坂に惚れたのか…?
理由はそれこそ乙坂と同じです。
「恋に理屈なんて必要あるかっ!!」
理屈なしで他人を信じられる。なんて素晴らしく、幸せなことでしょう。
そうです、『シャーロット』とは幸せの物語なのです。
…中の人のラジオでのイチャイチャぶりも思い出して書いててつらくなってきましたね!!!!!あーっいいなー!!みんな幸せだなー!!
※「友利奈緒の生徒会活動日誌」で検索
・おまけ
乙坂が最後に奪取した能力は「勇気」。
なるほど、OPタイトルの”Bravely you”がまさかここにかかってくるとは。
そして乙坂が「勇気」を奪ったことで、Bravely youとはまさに乙坂自身を指す言葉に。
よってOPの楽曲で語られる事象は乙坂へと完全に帰結しました。
少女への言葉が「生きろ」ではなく「死んでしまうところだったぞ」という言葉も、麻枝准らしいところです。
ひとりでもゆくよ 死にたくなっても
声が聞こえるよ 死んではいけないと
(『一番の宝物』作詞:麻枝准)
・「ループ」から抜け出せない友利の兄
ZHIENDを聴くことをやめた乙坂や友利は「これから」へ向かう。
ではZHIENDを聴き続ける友利の兄はどうなってしまうのでしょうか。
最終話、ZHEINDの音源をサラのサイン入りCDを抱えながら横になる友利の兄。
とても穏やかな表情をしています。
自分の心地よい世界の輪廻の中、目覚めることがない…。
きっと友利の兄とは、広い意味で視聴者の風刺だったのではないでしょうか。
過去を自分好みにアーカイブし、完成した自己サイクルの中で永遠の消費に浸かったまま新しい世界に目が向かない、そういう人間の象徴です。
しかし麻枝准は友利の兄を、否定も肯定もしませんでした。
友利の兄を目覚めさせることも、狂気に苦しめることもさせなかった。
飽くまでも「ループの中も気持ちいいだろうが、そこから抜けだした先にある『これから』も、きっと楽しい」と、本作を通じて示してくれたのではないでしょうか。
すべては「これから」なんですから。
それを決めるのは自分自身です。
(ゆさりん、えっちだ…)
・終わりに
1クールのTV放送作品としてあともう少し、という部分が多い作品ではありました。
しかし本稿を通して『シャーロット』という作品がいかに清々しく前向きな作品であったか、少しでも感じていだたける一助になれば幸いです。
そして全話を通して個人的に友利のテーマソングになってしまった曲を貼り付けて自分の好きなバンドを推して終いといたします。
ひとりぼっちがせつない夜 星を探してる
明日君がいなきゃ困る 困る
幾度のせつない夜を越えていった人が向かえた「これから」が、幸せなものでありますように。
「アイツの闇」を許せるか?―『バケモノの子』の無邪気な恐ろしさ
※めっちゃネタバレしながら書いています!!※
有事に備えて『バケモノの子』を観てきましたが、ちょっといろいろ危険すぎました。
この危険すぎるというのは「わあ、日テレがジブリに続いて全力賭けてスポンサーした今年の夏休み最大の話題作に込められたメッセージがこんなに生々しくていいの?」という意味です。
『おおかみこどもの雨と雪』が特にそうですが、細田作品には「人がなにかしら自分の経験や気持ちを反映してしまう要素」がたくさん散りばめられています。
マイノリティとしての在り方、マイノリティを擁してしまったコミュニティの在り方、マイノリティを自覚した際のアイデンティティの保ち方…
インターネット上での観測範囲でしかありませんが、登場人物に共感してしまう人、反発してしまう人、たくさん見ました。そしてみんな結構本気だったと思います。
それだけ細田作品にはシリアスな要素がいろいろつめ込まれている。
で、今回の『バケモノの子』ではもう少しエンターテイメントに寄って分かりやすい作品でくるのかなと思ってました。サマーウォーズ的な。
ところがどっこい、本作は『おおかみこども』を更に深化させたような、だいぶ生々しい作品になっていました。
本当もう映像的にもいろいろサイコーかよ!!みたいな部分めっちゃあったんですけど(九太って名前つけるところまで完全に『千と千尋の神隠し』のリビルドだし獣人たちのモチーフは『名探偵ホームズ』でおいおいどんだけ宮崎作品持ってくる気だと思ったら熊徹含め3人の仲間はマギシステムだし一郎彦の暴走はヱヴァ破ばりにうねうねしててひえ~ってなったし劇伴は前作につづいて不思議な緊張感がある)、全体的に切迫した雰囲気が重くて後半からかなり真顔になってました。
※参考
いろいろ気になるところはあるのですが、僕が一番危険だ、と思ったのは「一郎彦の闇のゆくえ」でした。
右のイケメン。大人になると宮野真守の素晴らしい演技が充てられる。
そもそもこの「闇」ですが、「バケモノは闇を持たないが、人間は成長するといずれ闇を心に抱える」と作中で説明されます。
純然たるバケモノとして、バケモノの盟主のもと育てられてきた一郎ですが、実は九太同様に拾われた人間の子でした。
容姿がいつまで経っても憧れる父親のような姿にならない一郎彦は、自分がバケモノでないことに気付きます。
そんな一郎彦の気持ちに真実をひた隠しにしたまま、父親の猪王山も一郎彦に接し続けてしまう。
誠実な盟主を父親に持つ息子という、はたから見ればなん文句もつけようもない父子関係ですが、それはお互いの核心に触れないままにすれ違ってしまった関係の裏返しでした。
さらに一郎彦の目の届く範囲で、似た境遇の九太が人間であることを隠しもせずに健全に成長している。
ひらたくいえば「闇」は思春期的なメランコリーであり、自身のアイデンティティのゆらぎを自覚してしまったことによる負のエネルギーです。
自分自身を自ら容認できない、そういう経験がある人は少なくないのではないのでしょうか。
そして一郎彦はこの闇の力によって、いろんな人に実害を与えはじめる…。
問題はここからです。
この一郎彦の暴走を止めるため、「ともすれば自分もそうなっていた」と同じ人間の九太が立ち上がります。その間、一郎彦の家族は「私たちはどうするべきだったのか…」と後悔する。
そして九太によって闇を封じられた一郎彦は、なんの記憶もないまま自室のベッドで朝を迎えます。
傍らには夜通し様子を見守っていたであろう家族が眠っている。
めでたしめでたし…
全然めでたくなくね!?!??
闇を抱えた人は、闇を自覚した人にしか救えない?
闇を抱えられない人(作中ではバケモノだが)は、彼らに何もできない?
そして闇が原因で引き起こされた悲劇は、本人の認知や責任は必要ないの?
確かに思春期の如何ともし難い気持ちのやり場がわからなくて、道を外した行為に及んでしまうこともあると思うけど、それはなかったことにはできないのでは、という気持ちに満たされました。
好意的に見れば「一郎彦は賢い子だし、家族もみんな一郎彦を大切にしている。作中に描写はないが、きっとこれからわだかまりなく、よい家族として過ごしていくだろう」というようには補完できなくもないのですが、そこに及ぶにはもう少しきれいになった一郎彦の心情が見たかった。
何より前述した一郎彦が目覚めるシーンなのですが、一郎彦の表情があまりにも美しくて(本当にきれいだった)、そこに寄り添うように眠る家族は一郎彦の神性を崇める群衆のような、絵画的なカットがきられています。
ここに細田守の純粋すぎる思いを見た気がしました。
確かに闇を抱えてしまった人間は生きづらい。
それが外への破壊を生んだり、時には内への破壊へと向いてします厄介なものです。
つらい人にはなんとかしてあげたいというのが心情ではありますが、果たして闇を抱えた人間のゆくえがこういう形で表現されていいのか、すごく考えてしまいました。
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はっきり言ってこの記事は僕の個人的な考え(感情的な部分)が入りすぎています。
しかし冒頭にも記載した通り、細田守作品は観客の人生を反映してしまうような要素がたくさん詰め込まれています。もう仕方ないんです。勝てない。
公式サイトでのコメントで細田監督はこう述べています。
旧来の伝統的な家族観はもはや参考にならず、
私たちは、家族の新しいあり方を模索しなければならない瀬戸際に立たされています。
多様な家族観を提示し、観客それぞれに自分なりの家族観を浮き出させ刺激する、すごく重要な作品となりました。
エンターテイメントとシリアスな問題を同居された本作のありあまるほどのパワーに打ちひしがれ、もうしばらく倒れたままでいようと思います。
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「今 変わっていくよ」―『シャーロット』OPから読む輪廻と抵抗の意志
新作アニメ『シャーロット』が始まりました。
麻枝准のオリジナルアニメとしてP.A.WorksがAngel Beats!から5年ぶりに手がける本作ですが、これがとても素晴らしい作品になっています。
PA贔屓なのは自覚あるんですが本当にすごいんです。2話目にして泣きました。
今回その2話で通常OPがつきましたが、OPから得られる情報を整理していくほどに本作への期待がどんどん高まっていく一方、キャラクターの心象や運命への不安が大きくなりすぎてまして、今こうして手を動かして平静を保とうとしています。
ところでヒロインの友利奈緒っていう人がですね、その、すごく"""いい"""んですよね…
↑安易なオタクを殺しにかかってくるヒロイン(最高です)
はあ佐倉綾音さん…
終始だるそうな佐倉綾音さんの演技…
でもたまにはキリッとしめる佐倉綾音さん…
佐倉綾音さん、「あっ誕生日一緒なんだ~へ~この人ちょっと気にしてみよう」と夢喰いメリーからずっとチェックしてきたのですが、ここ1年くらい演技の幅も声の作り込みもすごくレベルが高くて、何かしら出演してるのを見るとあーっ!!って歓喜してます。
ただあまりこういうゲーム的作品の文脈になかった人だと思っていたので、PA/麻枝作品への出演というのはかなり意外でした。
それでもハマってきてるからもうね、うん…ああ…
はあ…
本題です。
既存の麻枝准作品同様、非常に情報量の多い本作のOP。
僕なんかよりずっとこれまでのkey作品への知見や文脈の理解度が高い人は山ほどいますから、そうした方の解説を待つ一方、個人的にザクザク心に刺さってきた部分だけを絞って書いていきます。
※少し2話の内容に触れています。未視聴の方はご留意ください※
■ループ、ループへの自覚、そして抵抗
↑友利の音楽プレイヤー。
OPで複数回出てくる友利の音楽プレイヤー。この音楽プレイヤーで彼女は劇中バンド「ZHIEND(ジエンド)」の楽曲を聞いているようです。そしてこのバンドは彼女の兄が幼少期の友利に薦めたバンドでもあります。
「ZHIENDを無限に流し続ける音楽プレイヤー」こそ、友利が置かれた現状と過去、そして場合によっては未来すらも示しています。
終わらないZHIEND。
上:加速する時計と、つながれなかったふたつの手
下:つながろうとするふたりの手
前述したように、友利は抜け出せないループにはまってしまっています。
そしてOP冒頭、加速する時間の中でつながれないふたつの手。
このふたつの手が誰のものかは明示されませんが、本作の各キャラクターが持つ共通の負のループを示していることでしょう。またそのループへの自覚はあるが、手を伸ばしても救いはもたらされてこなかった。
しかしOP後半、主人公乙坂と友利は空中落下する中、なんとかお互いの手を取り合おうと必死に手を伸ばします。
「今度こそ、今度こそここから抜け出そう」
そういう祈りにも似た必死の抵抗を、感じずにはいられないのです。
■「帰りたい」「シャボン玉」「ハングドマン」
↑☓2「踵を鳴らし、魔法をかける」
オズの魔法使いでは「踵を三回鳴らすと家に帰れる」のですが、ここで友利は踵を一回しか鳴らしません。つまり「帰りたいけど、帰れない」のではないでしょうか。
作中にも示される「不完全な能力」ともつながります。
友利の帰りたい家は、きっともうないのです。
↑☓2祈りとシャボン玉
このブログでも繰り返し言っていることですが、画面に向かってキャラクターが左を向いている状態は「正」の状態です。
シルエットとなった妹ちゃんと重なって祈る乙坂と、シャボン玉(=いずれ消えゆく存在)を放つ乙坂。妹ちゃんの将来は、シャボン玉なのでしょうか。
ここはちょっと確証が薄いですが、個人的な予感として記載しておきます。
↑画面的には楽しいが…
既に一部で大人気の高城(左)と、まだ本編では登場していない西森(右)のふたりが宙吊りになって笑顔でぶらぶらしているカット。
このカットが個人的に一番ざわつきました。というのもこのカットでふたりが限りなくいい人だと直感したからです。
ここで引用するのはもちろんタロットカードの「ハングドマン」です。
ハングドマンの大義は「誰かのために犠牲となって吊られている」とのことです。
またこの犠牲をハングドマンは苦痛と思っていません。むしろ吊った人を信頼し、進んで吊られているから笑顔でいる。
このふたりの吊られる物語が必ずどこかで出てくることでしょう。
■道化(愚者)のゆくえ
↑☓3「ばぁー!!」喜び勇んで崖へと走り抜ける歩未。その最後の表情は喜びか?
主人公乙坂の妹の歩未ですが、もしタロットカードの引用が可能であるなら「道化(愚者)」としての役割を僕は読み取ります。
作中でも若干電波気味なマスコット(=道化的)の歩未ですが、メインキャラクター5人の中でも唯一同じ組織(生徒会)には属していないイレギュラーな存在です。
そしてOPラストで崖への一本道をひとり走り抜ける歩未ですが、愚者のカードもまた「崖へと歩み進んでいく」カードです。それだけ彼女は自由な存在であり、さまざまな可能性を秘めているのです(いい意味でも悪い意味でも)
また既存のタロットカードに後付けでナンバリングされたため、愚者のカード番号は0らしいです。(ライダー版タロットのみ)
「歩未=まだ進んでいない=0」とこじつけるのも楽しそうです。
完全にひとりぶんの間の抜けた最後のカット。
Angel Beats!のEDを踏襲するのであれば、一番左に歩未を取り戻せるかどうかが、乙坂の運命の鍵となるでしょう。
■まとめ「今 変わっていくよ」
本作の色彩構成では「青色」の使い方が非常に印象的です。
青色、ループ、崖…完全に個人的な趣味ですがこの曲を思い出さずにはいられませんでした。
「永遠に続くような 掟に飽きたら
シャツを着替えて出かけよう」
ファンの間では道連れか何かでは、という鬱な解釈が有名な曲です。
しかし『シャーロット』に合わせるならば、彼らが抜け出せない運命への抵抗の成功を願うのにぴったりの曲ではないかと思うのです。
「そして輪廻の果てへ飛び下りよう
終わりなき夢に落ちて行こう
今 変わっていくよ」
どうか彼らの運命が、彼らの望む形になりますよう。
「吹奏楽部」の夢―10年前、僕は中川夏紀さんと会っていた(はず)。
ご多聞に漏れず『響け!ユーフォニアム』をとても楽しんています。
いろいろ言いたいことはあるのですが、どれも言語化の過程でただの絶叫にしか成り得ず、この作品の感想を公衆の場での伝達を前提にした表現ができそうもありません。
というか主人公の名前が親の名前と一緒なので「久美子と塚本早くどうにかなっちまえよ」とか「高坂久美子になる展開マダ?」といった関係各位の善き妄想を私はいっこうに喜ぶことができません。だから一貫してこの作品で当該キャラクターの呼称を「黄前さん」と統一しています。
まったくもって変換しづらく、生きづらい世の中です。
【TVアニメ化】響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ (宝島社文庫)
- 作者: 武田綾乃
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2013/12/05
- メディア: 文庫
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さて中川夏紀さん。
名前に夏を抱えるなんて素敵じゃないですか。中川さんは一生夏なんです。
だから冬服の時期でもポニテでいられるし、窓は全開なんだ。
さて、当該作品を視聴していくうち、どうしても中川さんが、自分の過去のどこかに存在していたような気がしてきました。
こいつもついぞ創作と現実との区別がつかなくなったか、と思われるかもしれませんが(僕もそう思いました最初)、この違和感にはれっきとした理由がありました。
高校2年の時の同級生。
彼女は吹奏楽部員で、だいたいいつもポニテで、席は一番後ろの窓際でした。
出来すぎと思われますでしょうが、本当なんです。さすがに楽器はユーフォニアムじゃなくてフルートでしたが。(さっき卒業アルバムで確認した)
中川さんのようなちょっとタルい子、というよりはむしろ田中あすかさんのような明朗な方でした。
今日仕事中にこれに気づいて、デスクワークの静かなフロアで「アッアーッ」とぬるい声を漏らしかけるくらいにストンときてしまいました。
今でこそ楽器を弾くという行為が生活の一部になっているのですが、高校当時の僕はまだ一切楽器に触ったことがなく、音楽ができる人に対して無条件に憧れがありました。
またこれは全国的な共通認識であることを切に願ってやまないのですが、吹奏楽部というのは文化部のエースであり、校内ソーシャルで唯一体育会系とも肩を並べていられる非常に強い存在であると、当時も今も信じています。
「楽器という未知のツールを使う人たちが集団でパフォーマンスを行う(しかも素人でも楽しめる)」という、吹奏楽部は僕にとってただただ見上げるような存在でありました。
さてその同級生というのは吹奏楽部でもムードメーカー的な立場を確立していまして、踵を潰した内履きをパタパタさせながら、仲良しの吹奏楽部と廊下でよく通る声を響かせて、もちろんクラスでも良い存在感を放っておりました。
先ほど窓際の席、と書きましたが、そのちょうど斜め後ろに僕の席がありました。つまり僕から見て左前です。とはいえ左側には席がなかったため、実質一番後ろ同士だったわけです。そのせいもあってお互い無駄話をする機会が多い時期がありました。
僕自身は決してクラスの中心という存在ではなかったため、吹奏楽部でもクラスでも遺憾なく存在感を発揮する彼女に話しかけられるというのは個人的に一大事であったわけです。
田舎とはいえ一応進学校でしたので、学期が進むに連れてクラスの話題に成績が割合を占めてくるのは自然な流れで、近い席同士でテストだの模試だの成績表を見せ合うなんてことも間々ありました。当時彼女は確か外語大とかを志望校に書いていたような気がします。
幸い僕は英語だけは学年上位10人前後に入っていましたので、外国語学部志望の彼女からはよく英語の点数を見せろ見せろと言われておりました。(だいたい僕のほうが上だった)
で、割と自信があった回だったんでしょう、先に点数を見せつけてきて僕の答案用紙をぶんどった日がありました。…が、その日も僕の方が上でした。
アッハイハイいつものパターンですね、そう思った矢先。
顔をはたかれました。
はたく、と言うものの、スローモーションで頬を撫でるような程度に。
とても素晴らしい笑顔で。
教室で。
ワイワイしてるとはいえ、他の同級生がいるところで。
しばらく僕は固まってしまいました。
ふと気を戻すと何事もなかったように答案用紙は机に戻っていました。
彼女は教壇に背筋を伸ばし、特にもうこちらを気にかけている様子はありませんでした。
ちなみに彼女には当時とてもよくできたハンドボール部のイケメンの彼氏がいましたし、その後学年上がる時にクラス替えしてからほとんど話すこともないまま卒業しました。
本当"アレ"はなんだったんだろう。
僕をはたいた吹奏楽部の魔法は10年間ひっそりと息を潜め、ある日、突然襲いかかってきました。
「吹奏楽部」は、永遠に憧れのまま、これからも輝いていくような気がしてならないのです。
多田李衣菜と前川みくが好きすぎて書いたSSの元ネタが音源化するの決定してて解脱してます
[多田前川] 水中メガネ | civic ethica #pixiv http://t.co/4TJEc7uY5c 僕がずっと最近水中メガネで聴いてたのはこういう理由があったからでした
— サカウヱ(不憫女子愛好家) (@sakasakaykhm) May 17, 2015
アイドルマスターシンデレラガールズの多田李衣菜と前川みくのコンビが好きすぎる影響でこの1ヶ月ずっとこれ書いてましたのでブログ停止してました。
女の子の前川を考えては胃痛が再発し、だらしない多田が変わっていく瞬間を考えては動機が激しくなっていました。
さてタイトルの水中メガネは99年に作詞松本隆、作曲草野マサムネで仮面シンガーchappieがリリースした楽曲ですが、奇しくもこの楽曲が草野マサムネの歌唱で、今年の松本隆トリビュートアルバムに収録されるようです。
松本隆 作詞活動四十五周年トリビュート 「風街であひませう」(完全生産限定盤)
- アーティスト: VARIOUS ARTISTS,安藤裕子,小山田壮平&イエロートレイン,草野マサムネ,クラムボン,斉藤和義,手嶌葵,中納良恵(EGO-WRAPPIN’),ハナレグミ,やくしまるえつこ,YUKI,細野晴臣
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2015/06/24
- メディア: CD
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草野マサムネがこの曲を歌ったのは99年の松本隆トリビュートライブでの一度きりで、この16年間、そのブート音源だけでしか確認できないものでした。
VHS時代の音源のためひどい音質で、毎回ボロボロのカセットテープを回すような日々であったわけで、今回ついにスタジオ音源としてリリースされるのが本当に…もう…ううっ…
みんな水中メガネ歌詞読んで!!
頼む!!
あと楽曲も聞いて!!
それからSS読んで!!
ありがとう松本隆…
マグリットから学ぶ裏切りと解放のしくみ―「青い子なんて言わせない」
行くまで知らなかったのですが、現在ルーブル展も同時開催されております。
チケットを買いに並んでいると
「マグリットはうーん…よくわかんないよね(笑)」
「ねーなんか変だよね(笑)」
という渋い会話が前のカップルから聞こえてきました。
もちろん彼らはルーブル展のチケットを買ってましたとさ。
そりゃルーブルはルーブル(愛)だからね。お二人様、それは至極まっとうな思考ですぞ。
僕もルーブル展行こうとか素直に言えるような人生を送りたい。
そんな思いを乗り越えた向こう側で観覧したマグリット展。
そこから学んだ裏切りの方法が本日のテーマです。
少し真面目な話。
-
裏切りの実施例(およびその体験)
ではまずこの作品のタイトルを想像してください。
決まりましたか?
この作品のタイトルは『呪い』です。
繰り返します。 『呪い』 です。
…急に不穏になってきましたね。
次です。
この作品のタイトルを想像してください。
もしかしたら当たった人もいるかもしれません。
『前兆』です。
今にも雪崩が起きるかもしれない不安な絵になりました。
ちなみにどちらの作品もこの展示で見ることが出来ます。呪いや前兆を是非、生で感じてきてください。
このようにマグリットは作品に一見無関係なタイトルを付すことで、観客が絵画に対して持つであろうイメージを崩しにかかるという方法を採っています。
このイメージの崩壊を可視化すると以下の様なフローになります。
「わーきれいな空の絵だなあ」
↓
「この作品のタイトルは『呪い』です。(ただし呪いと言っているだけで、この作品自体が呪われてるとか、そういうことを説明しているわけではない)」
↓
「えっなにそれこわい。この作品にどんな意味があるのだろう(しかし何が怖いのかは観客にも説明できない。ただ漠然と、自分の中にある「呪い」という単語に含まれる概念をこの絵画に重ねているだけで、この作品自体に怖さがあるわけではない)」
この方法を最も端的に示したのが、有名作『イメージの裏切り』です。
どう見てもパイプの絵なのに、下には「これはパイプではない」という一文。
ではこのパイプ(のようなもの)はなんなのか?
観客は絶対に示されない答えを悶々と考えさせることになります。
作品の視覚情報が持つ常識や普遍的なシニフィエ(表象される概念)を、タイトルやキャプションによって否定したり歪曲することで、観客は一気に常識から解放された状態で作品を鑑賞することになります。
マグリットはこの方法で観客へ「作品は自由に鑑賞してね」という姿勢を示しているように感じます。
「これは何に見えますか」
「パイプの絵ですね」
「これはパイプじゃないんですよ」
「えっじゃあなんなんですか」
「それは自分で考えてね~(ハァコリャコリャ」
といったように。
上述した作品以前に、タイトルが作品を作品たり得るようにした前例があります。
『泉』マルセル・デュシャン
「マット=サン(デュシャンは敢えてマットという偽名で出品した)、これは便器では?」
「これは『泉』という美術作品です」
(買ってきた便器にサインしただけだけどね)
「アイエエーないわー!!こんなん美術じゃないわー!!出展ダメね!!」
「(デュシャンが別人として批評)彼が既成品を美術作品にしようとする姿勢自体は否定されてはいけないのでは?」
「ぐぬぬ」
本作は美術館の作品は美術たらねばならない!!という当時の姿勢を風刺した作品でもありました。
いかに人間が既に自分の中にあるイメージや設定、情報で作品を鑑賞しているかがわかります。
「値の高いモノなんだからきっと素晴らしいものなんだ」
この手の思い込みのような姿勢は、日常のそこここに潜んでいるように感じます。
- 現代のコンテンツに見る裏切りの方法
そして実体のイメージと相反したキャプションをつける行為は、最近だと画像大喜利サービスboketeで体現されています。
元の画像は死の舞踏の一枚だったか黒死病の風刺画だったかと思うのですが、この実体が本来持っている非常にシリアスなイメージを、全く無関係なキャプションによって裏切ることで笑いが成り立っています。
しかしイメージを裏切って「笑わせる」ことを目的としているので、マグリットの方法に比べて観客の自由度は格段に下がっている点が異なります。
よって観客を笑わせられなかった場合、イメージの裏切りサイクルから外れてしまいますから、この作品は「スベった」という評価をつけられることになります。
人を惹きつける「裏切り」がどんなものか、なんとなく見えてきたことと思います。
こうして見ると、視聴者を大きく裏切って大成した映像作品として思い出せるのは『魔法少女まどか☆マギカ』です。
で
「シャフトのポップな画面」
で
「カラフルなトーンの魔法少女アニメ」
は、第三話でその様相を大きく裏切りました。
視聴者が無意識のうちに強固に作り上げてしまっていた「この世界観でこんなことが起こるはずがない」という前提を派手に取り壊すことが、本作に仕掛けられたトラップでした。
裏切りという手法が人に与える効果は、今も昔も変わらないようです。
-
まとめ
「AなのにB」という裏切りを大成させるため
・Aのイメージを出来る限り強固に作り上げ
・「Aにこんなことがあるはずがない」という、裏の概念を自分の中で強化し、Bとして体現する
というフローを意識づけることが、観客への大きな揺るがしを与える手法のひとつではないかと考えずにはいられない一日でした。
というわけで最後に僕の考えた最強のイメージの裏切りを置いておきます!!!
La jeune fille sera heureux.
(この娘は幸せになります)
おしまい。
※追記
冒頭で書いたとおり、マグリットもまた他のシュルレアリスム作家同様、「ちょっとよくわからない」という印象があると思います。
しかし一時期は上記の『不思議の国のアリス』のように印象派のような明るい柔らかなタッチを志向していた時期もあったようです。
その理由もまた当該展示で確認できます。
展示は6/29まで。